大粛清
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大粛清(だいしゅくせい、英:Great Purge)とは、ソ連の指導者ヨシフ・スターリンが1930年代後半におこなった大規模な政治弾圧を指す。最盛期であった1937-1938年の犠牲者(ただし反革命罪で裁かれた者に限る)は、今日明らかになっている統計資料によれば、135万人弱、そのうち半数強が死刑判決を受けた。
なおロシア語における「粛清」чистка、chistkaとは、本来、党員としてふさわしくない人間を党から除名することを意味する。ロシア本国には、英語のGreat Purgeの露訳に該当するБольшая чисткаという歴史用語は存在せず、理解されない。通常はスターリンによる「大量抑圧」массовая репрессия、「エジョフシチナ」Ежовщинаと呼ばれる。現在では学界を中心に、大粛清のテロルとしての面を強調する立場から「大テロル」の呼称が拡がりを見せつつある。正確には、この「大テロル」という用語か、スターリン時代の「大量抑圧」という用語が用いられるべきであろう。
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[編集] 大粛清の始まり
レーニンの死後、かわって党内の実権を掌握したスターリンであったが、共産党の中には古参党員を中心にスターリンの暴走を掣肘しようという者はいぜん多かった。そんななか、1934年に共産党幹部キーロフが、レオニード・ニコラエフという青年に暗殺される事件がおこる。この事件について、スターリンが暗殺させたという説が取りざたされてきたが、憶測の域を出ない。いずれにせよ、スターリンはこの犯人グループはトロツキー一派であるというでっちあげをおこない、その逮捕を口実に自らの反対派抹殺に乗り出すこととなった。
まずかつて対トロツキーでスターリンと手を組んだ元党政治局員のカーメネフとジノビエフが逮捕されてモスクワ裁判において銃殺刑を受けるという合同本部陰謀事件を起こした。政治抑圧はこの時点ですでに本格化していたが、その後はさらに過激さを増した。というのもソ連の当時の秘密警察は内務人民委員部(NKVDエヌカヴェデ)であり、彼らが一連の粛清の指揮をとっていたが、その長官ゲンリフ・ヤゴーダの取り組み方が手ぬるいと評価されたからである。やがてスターリンもヤゴーダを見限り、1936年9月にヤゴーダは更迭され(ヤゴーダものち粛清される)、ニコライ・エジョフがその後任に任命されると、政治弾圧の規模が一気に拡大することとなる。
[編集] エジョフ体制の成立
スターリンに抜擢されたエジョフは、その期待にこたえるべくヤゴーダ体制の刷新にあたった。補佐役のNKVD長官代理にフリノフスキー(NKVD国境警備総局長)を任命。共産党幹部達を徹底的に調査させ、政治的逮捕の組織化を行うとともに、地域ごとの逮捕人数の割当まで指示した。
まずピャタコフ(重工業人民委員第一代理)、ラデック(元コミンテルン執行委員)、ソコリニコフ(元財務人民委員/駐英全権代表)、ムラロフ(内戦時のモスクワ軍管区司令官)などが逮捕され、1937年1月の第二次モスクワ裁判において死刑判決を受けた(ラデック、ソコリニコフは懲役10年)。1937年2月の中央委員会総会中には、ブハーリン(元コミンテルン書記長・元党政治局員)、ルイコフ(前首相・元党政治局員)、ヤゴーダ(前任の内務人民委員)ら党の有力者を次々と逮捕し、翌年1938年の第三次モスクワ裁判で死刑にした。粛清は、単に反スターリン的な人物だけに留まらず、スターリンに忠実だった者たちへも及び、ポストィシェフ、コシオール、ルズタークのような1920年代にスターリンの粛清や集団化を支持した共産党幹部たちも次々と弾圧されていった。結局、第十七回共産党大会において中央委員または中央委員候補だった者139人のうち98人がこの時期にNKVDによって逮捕・銃殺されてしまう。
[編集] 赤軍大粛清
第一次モスクワ裁判では、ムラチュコフスキー将軍(ウラル軍管区司令官)やスミルノフ将軍(シベリア方面赤軍司令官)など赤軍高官も処刑されていたが、彼等は赤軍としてというより、スターリンに並ぶ古参ボルシェヴェキとしての側面を恐れられて粛清されたとみられる。赤軍自体への粛清は当初スターリンといえどもなかなかできずにいた。だが、1936年7月にNKVDに逮捕されたシュミット将軍(キエフ軍管区戦車隊司令官)が、拷問のすえ廃人にされて赤軍内の“共犯者”の名前を“自白”したことで、徐々に赤軍高級将校への粛清がはじまった。さらに1937年6月11日にはトゥハチェフスキー元帥(国防人民委員代理)、ヤキール上級大将(キエフ軍管区司令官)、ウボレヴィチ上級大将(白ロシア軍管区司令官)ら名だたる赤軍高官がまとめて“ナチスドイツのスパイ”として銃殺され、これを機に赤軍粛清がいよいよ本格化。以降、翌年1938年まで所謂「赤軍大粛清」が吹き荒れることとなり、元帥5人のうち3名、軍司令官(大将)15人のうち13人、軍団長(中将)85人のうち62人、師団長(少将)195人中110人、旅団長(准将)406人中220人、大佐階級も四分の三が殺され、高級将校の65%が粛清された計算になる。政治局員(共産党から赤軍監視のために派遣されている党員たち)も最低2万人以上が殺害され、また赤軍軍人で共産党員だった者は30万人いたが、そのうち半数の15万人が1938年代に命を落とした。
[編集] トハチェフスキー粛清の謎
「赤いナポレオン」と謳われる内乱時代の英雄で、その後も赤軍の機械化・近代化とその運用のための縦深作戦理論の確立に指導的役割を果たしていたトゥハチェフスキー元帥の処刑は世界に衝撃を与えた。トゥハチェフスキーとスターリンのそもそもの確執は対ポーランド戦争に遡るといわれる。この戦争でトゥハチェフスキー軍はワルシャワを包囲したが、スターリンが政治委員をつとめるエゴロフ軍はワルシャワ包囲の増援を送らなかったため、陥落させられなかった。当時のスターリンは、トゥハチェフスキーの華々しい連勝を嫉妬し、自分も戦勝将軍としてどこかの都市に華々しく入城したいと考えていたとの説もある。レーニンは激怒し、ただちにスターリンの革命軍事会議議員の地位を剥奪したが、大恥をかかされたスターリンはトゥハチェフスキーを逆恨みするようになったという。もしその通りなら、トゥハチェフスキーの存在感はスターリンの自尊心を傷つけるものであったろうことは想像に難くない。ナチスドイツ情報部SD司令官ラインハルト・ハイドリヒも、独ソ戦があった場合に最大の強敵になるであろう名将トゥハチェフスキーを始末する絶好のチャンスをのがさなかった。「ドイツ軍とトゥハチェフスキーが接触した」という偽造文書を作成し、チェコスロヴァキアの親ソ政治家ベネシュ大統領を通じてモスクワのスターリンへ届くよう工作したとされる。一方でスターリンの側がドイツがそういう行動に出るよう仕向けたともいわれ、真相は定かではない。いずれにせよ、「ナチスのスパイ」として逮捕されたトゥハチェフスキーはNKVDの取調官から調書に血の跡が残るほど激しい拷問を受けて、スパイである事を自白せざるをえなかった。裁判ではナチスの偽造した文書が証拠として利用された。有罪の判決を受けたトゥハチェフスキーは1937年6月12日に銃殺された。
[編集] 日本人粛清者
当時、ソ連の外国人といえば、コミンテルンに参加するためにソ連に来ている共産主義者か、または共産主義が禁止されている国からソ連に亡命してくる非合法組織の者か、そのどちらかがほとんどであったが、彼らもスターリンの粛清の前には例外にはされなかった。外国人犠牲者で特に有名な人物としてはハンガリーの共産主義運動の始祖でレーニンの信頼も厚かったベラ・クーンがいる。彼は1937年5月に逮捕されて1939年11月に銃殺されている。またソヴィエト著作家協会リトアニア支部の創設者で、1920年秋のカヒョフカ戦で活躍したリトアニア人共産主義者ロベルト・エイデマンも大粛清に巻き込まれて殺された。日本人からは、山本懸蔵(日本共産党員。1937年11月逮捕、1939年3月銃殺)、伊藤政之助(日本共産党員。1936年11月逮捕、1937年銃殺)、国崎定洞(在独日本人左翼の医師。1937年8月逮捕、12月銃殺)などソ連亡命中の共産主義者を中心に10~20名前後が粛清されたと見られる。
[編集] 大粛清の結末
スターリンとエジョフの粛清は広範に拡大され、おそらく人類の歴史の中でも名だたる政治抑圧の事例となった。しかし1938年後半にはいると、大量抑圧によって国家機能や経済運営が支障を来たすほどになり、弾圧の実行者である治安機関がその責任を問われることとなった。1938年末になるとスターリンはエジョフとNKVDを批判するようになり、エジョフはついにNKVD長官の座をベリヤに奪われて、さらにスターリン暗殺計画を企んだとして逮捕・処刑されてしまう。またフリノフスキーはじめエジョフの部下たちも次々と処刑され、粛清にあたったNKVDの関係者たちでスターリン時代を生き残れた者は多くなかった。その後、独ソ戦期・冷戦期にもベリヤの指導で政治弾圧は続いたものの大粛清期に比べるとはるかに縮小し、1953年にはようやくスターリンも死を迎えた。その後を受けたフルシチョフは、大粛清をはじめとするスターリンの個人崇拝政治を批判し(スターリン批判)、これにあわせて、大粛清で処刑・流刑された共産党や赤軍の幹部達に恩赦や名誉回復がはじまった。フルシチョフの失脚後、ブレジネフの政権下では一時名誉回復運動も停滞したが、1985年にはゴルバチョフによって再び「改革派」が勢いづき、スターリン政治の実態が明らかにされる一方で、更に多くの犠牲者達の名誉が回復された。
[編集] 犠牲者数
大粛清の犠牲者数には諸説があるが、1930年代に反革命罪で死刑判決を受けたものは約72万人(ただし、過酷な取調べ・尋問の過程で死亡した者や、有罪判決を受けて劣悪な環境下で服役中に死亡した者の人数については正確な統計が残されていないため、その人数を合わせれば犠牲者数は増大するはずである)。また農業集団化に伴う「富農」追放や飢饉によって死亡した人数は、推計によって最大約700万人に達する可能性もある。
[編集] 大粛清の擁護論
一方で、「こうした弾圧措置は道義的また論理的には問題があったとはいえ、そのおかげでロシア・ソ連の近代化が成功した」として、この時期のスターリンの行動を肯定・正当化しようとする論者も存在している。その根拠は、スターリンの時代を矛盾の時代だと定義することから出発している。すなわち、ソビエト成立時の産業構造は農業主体であったが、本来であれば数十年を掛けて工業化を進めるところを、農民を犠牲にした強制的な資本蓄積を図ることで産業構造の近代化を成功させた、というのである。また、大粛清によって排除された高級将校は現代戦の知識に疎く、大粛清の後にはそれを補う有能な若手将校(ゲオルギー・ジューコフなど)が現れたと主張されることもあるが、他方で、大粛清によって熟練の将校が壊滅した事により赤軍は独ソ戦で大損害を被ったという反論もある。
[編集] 参考文献
ルドルフ・ツュトレビンガー著『赤軍大粛清』(学研) 世界大百科事典第16巻(平凡社)