ヨシフ・スターリン
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ソビエト連邦 第2代最高指導者 | |
任期: | 1922年4月3日 – 1953年3月5日 |
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出生日: | 1879年12月9日 |
生地: | グルジア、ゴリ |
死亡日: | 1953年3月5日 |
没地: | モスクワ |
配偶者: | ナジェージダ・アリルーエワ(二度目の妻) |
政党: | ソビエト連邦共産党 |
ヨシフ・スターリン(Иосиф Сталин、1879年12月9日(グレゴリオ暦12月21日) - 1953年3月5日)は、ソビエト連邦の政治家。本名は、ヨシフ・ヴィサリオノヴィチ・ジュガシヴィリ (Иосиф Виссарионович Джугашвили, グルジア語:იოსებ ჯუღაშვილი)。スターリンはペンネームで「鋼鉄の人」の意。
20世紀、アドルフ・ヒトラーと列ぶ、あるいはそれ以上の独裁者として悪名を馳せ、党内反対派や「反革命分子」に対する過酷な抑圧政策をとった。
しかし、旧ソ連ではスターリンを、祖国をドイツ(ナチ政権)から守った英雄と見る人も少なくない。
ボリシェヴィキ(ソ連共産党)に設置された書記局の長(ロシア語直訳では「総書記」)に就任し、党員名簿と経理を掌握することで実権を握り、のちの権力の地盤を築いた。レーニンの死後、トロツキーやブハーリンなどライバルの排除・反対派の粛清を経て実質的な最高指導者となり独裁的に権力を振るうに至った。スターリンの存命時代には、プロパガンダによりソ連は世界共産主義運動の希望の星として憧れの目が注がれていたが、死後、フルシチョフのスターリン批判などをへて、彼が支配した時代の政治経済体制および主張や理論はスターリン主義として左翼陣営からも否定的な目で見られることとなり、共産主義者のある立場からは批判され、ある立場からは敵視された。
目次 |
[編集] プロフィール
[編集] 生い立ち
現在のグルジアのゴリで、靴屋ヴィサリオン・「ベソ」ジュガシヴィリの息子として生まれた。彼の母親エカテリーナは農奴だった。他の3人の兄弟は幼くして死に、「ソソ」の愛称(「コバ」の愛称も)で呼ばれたヨシフはただ一人の子供だった。ヨシフは酒に酔った父親にしばしば厳しく鞭で打たれた。当時のロシアで鞭打ちは子供をしつけるための容認された方法だった。
エカテリネがゴリで洗濯と掃除を行った人々のうちの一人にユダヤ人のデビッド・ピスマメドフがいた。ピスマメドフはヨシフに金銭と本を与えて彼を激励した。数十年後に、ピスマメドフはソソがどうなったか知るためにクレムリンを訪れた。スターリンは初老のユダヤ人を歓待し幸福に歓談することで同僚を驚かした。
結局ヨシフの父親は家族を残してトビリシに行ってしまった。ヨシフはゴリの教会学校に通ったが、14歳になるとトビリシ神学校への奨学金を与えられた。奨学金に加えて、聖歌隊で歌うことで僅かな俸給も支払われた。母親は彼が聖職者になることを、ソ連の指導者になった後でさえ望んでいた。
[編集] 社会主義運動
社会主義運動への参加は神学校時代に始まった。1896年にマルクス主義のサークルを組織、1898年にグルジア社会民主党に入党し、学校の試験に出席せず1899年に放校となる。その後はコーカサス地方で政治的地下活動、活動資金調達のための現金強奪などを行い、1902年から1917年まで逮捕とシベリアへの追放が繰り返された。
[編集] 権力の掌握
1917年4月のレーニンの帰国後に彼に次ぐ立場への支持を得たが、1917年11月7日のボリシェヴィキ革命において彼の役割は小さなものだった。彼はロシア内戦およびポーランド・ソビエト戦争中は赤軍の政治委員だった。ロシア内戦時は故郷のグルジアに派遣され、メンシェヴィキ勢力など「反革命分子」の掃討に力を揮った。ポーランド・ソビエト戦争においては、南西正面軍の政治委員として、リヴィウの占領に拘泥し、赤軍敗北の一因を作っている。
スターリンの最初の政府役職は民族人民委員としてであった。続いて共産党政治局員となり1922年4月には共産党中央委員会書記長に就任した。病床のレーニンを見舞うことによって信頼を取り付けていったスターリンであったが、レ-ニンの妻ナデジダ・クルプスカヤを、レーニンの政治活動への参加をめぐり激しく叱責したことからレーニンの不信を買い、彼は遺言で「無作法な」スターリンへの罷免を要求した。しかしながらその要求は中央委員会のメンバーによって伏せられた。
1924年1月のレーニンの死後、スターリンは、レフ・カーメネフおよびグリゴリー・ジノヴィエフと共に、左派のトロツキーおよび右派のニコライ・ブハーリンの間で党を管理した。
この期間にスターリンは従来のボリシェヴィキの理論、世界革命路線を放棄し一国で共産主義を構築する「一国社会主義」政策を支持した。彼はブハーリンと行動を共にし、まずトロツキー、カーメネフ、ジノヴィエフと対立することとなる。五カ年計画の最初の年である1928年に、スターリンの権力は最高潮に達し、トロツキーは翌年に追放された。次いでスターリンはブハーリンを始めとする党内右派の抵抗を抑え、集団農業化、工業化を推し進め党および国に対する管理を強めた。しかしながら、セルゲイ・キーロフのような他の指導者の人気が示したように、彼は1936年から1938年に行った大粛清まで、絶対的権力を達成できなかった。
[編集] 大粛清
スターリンは政治的、イデオロギー的反対者、ボリシェヴィキ中央委員会の古参党員を策略によって逮捕、追放し、1934年1月の第17回党議会においては過半数の代議員が彼の言いなりであった。見せしめの裁判あるいはトロツキーやレニングラードの政治局員セルゲイ・キーロフの暗殺の後に法律を改定し、強制収容所への収監と処刑が行われた。
キーロフは政治局員であり党エリートであり、その弁舌と貧困層への真摯な態度で大きな人気があった。彼はスターリンの忠実な部下であったが、いくつかの意見の相違もあり、多くの歴史家がスターリンは彼を潜在的な脅威として考えていたとする。実際何人かの党員はスターリンの後継者としてキーロフに対して秘密裏にアプローチを行っていた。
1934年12月1日にキーロフは、レオニード・ニコラエフという青年によって暗殺された。ニコラエフはスターリンの命令によって暗殺を実行した刺客と考えられている。キーロフの暗殺は、1936年から1938年まで続いた大粛清の前兆であった。
大粛清の犠牲者数には諸説があるが裁判により処刑されたものは約100万人、強制収容所や農業集団化により死亡した人数は一般的には約2000万人と知られている。1997年の文書の公開により少なくとも約1260万人が殺されたことを現政府のロシアが公式に認めた。しかし、これは一部分であり、全ての文書の公開はされておらず、公開されるのはさらに時が経つのを待たなければいけない。特にこの時に行なったシベリアへの農民移住は悲惨を極め、このことが同時期の大飢饉と無関係ではあり得ないが、正確な犠牲者数は未だに不明である。
また、「大粛清」にはトハチェフスキーを始め赤軍の高級将校の大部分も含まれており、実に将官と佐官の8割が反逆罪の名の下に殺害されたとされる。
[編集] 第二次世界大戦
第二次世界大戦開戦直前の1939年8月19日の演説でスターリンは、ドイツとのモロトフ=リッベントロップ協定に基づくソ連の政策転換を表明した。しかしながら、1941年6月22日のバルバロッサ作戦の開始でヒトラーは協定を破棄しソ連に侵入した。スターリンはこの事態を予測しておらず、ソ連はドイツの侵入に対する準備が全く出来ていなかった。ドイツの攻撃が目前に迫るまでスターリンは防衛の準備を回避し、軍の近代化を進めるための時間稼ぎを望んでいた。幾人かの歴史家によれば、スターリンは攻撃開始後も事実を認めることに気が進まないように思われ、数日間は茫然自失の状態だったという。
ドイツ軍は開戦初期にソ連領内に大きく進出し、何百万ものソ連兵を殺害もしくは捕虜とした。赤軍将校の大量粛清はソ連の防衛力を著しく衰弱させていた。その結果スターリンは彼の30年間の統治下で二度国内への演説を行った。最初は1941年7月2日、二度目は11月6日である。2度目の演説で彼は35万の兵士がドイツの攻撃によって戦死したが、ドイツ軍は450万人の兵士を失い(この数字に根拠はなく、不合理な過剰評価であった)ソ連の勝利は目前だと話した。結局日ソ中立条約で東方に配備していたシベリア軍を対独戦線に投入することが可能になり、ヒトラーの度重なる目標変更、米英による援助物資の到着、そして氷点下50度に達した冬将軍の到来もあってモスクワ前面でドイツ軍の侵攻を停止させ、1942年12月にはスターリングラードにおいてドイツ第6軍を包囲し、降伏させた。
スターリンの戦略家としての缺点が、ソ連の敗北と多くの市民の死に繋がったとされる一方、彼はボルガ川の東へソ連の工業生産を移動させることによって赤軍の戦争遂行能力を保持した。1942年7月27日のスターリンによる有名な死守命令「ソ連国防人民委員令第227号」は、彼が軍隊の規律を保持するために発揮した無情さを例証する。同指令によれば、命令なしで自らの位置を離れたものは銃撃され、敵に降伏した兵士の家族はNKVDによって逮捕され、前線では兵士を後退させないため後ろに督戦隊の機関銃が設置された(しかしこの時期に赤軍はスターリングラード前面で大規模な戦術的後退を実施しており、同指令と明らかに矛盾する。主眼は大祖国戦争の意義の強調であり、独諜報機関へのかく乱工作の側面もあったものとされている)。スターリングラード防衛戦ではこの命令により1万4千人余りの兵士が自軍に銃殺された。
戦争初期には、退却する赤軍がドイツ軍に利用されないためにとインフラと食糧供給施設を破壊する焦土戦術を行った。後にドイツ軍も撤退時に同様の戦術を行い、かつ赤軍の兵力増強を避けるために住民を共に撤退させた。このために荒廃した土地のみが残る結果となった。
スターリンは、ドイツ軍と直面した他のヨーロッパの軍隊が完全に能力を失ったことに気づいていた。大戦の末期、1945年になるとスターリンはヤルタ会談に出席、同年ポツダム会談にも出席し、アメリカ、イギリスと戦後の処理について話し合った。
8月にアメリカが日本に対して相次いで原爆を投下した直後に、戦前より日ソ中立条約を結んでいたにもかかわらず、ヤルタ会談での他の連合国との密約、ヤルタ協約を元に日ソ中立条約を破棄し、対日宣戦布告をし日本及び満州国に対して参戦した(8月の嵐作戦)。その後日本政府はポツダム宣言の受諾の意思を提示し、8月15日正午の昭和天皇による玉音放送(終戦の詔勅)をもってポツダム宣言の受諾を表明し、全ての戦闘行為は停止された。しかし、少しでも多くの日本領土の略奪を画策していたスターリンはその後も停戦を無視し、南樺太・千島・満州国への攻撃を継続させ、その後の北方領土問題を引き起こす原因をつくった。
ソ連は第二次世界大戦における民間および軍事的損害の矢面に立った。2100万から2800万の国民が死に、その多くは若い男性だった。現在ロシア、ベラルーシおよび旧ソ連の国々では大祖国戦争として非常に鮮明に記憶され、5月9日の戦勝記念日はロシアの最も大きな祝日のうちの一つである。
[編集] 冷戦
第二次世界大戦後、赤軍は枢軸国の領域の多くを占領した。ドイツ、オーストリア国内にはソ連の占領地帯があった。また、チェコスロバキアとポーランドは後者が形式的に連合国だったという事実にもかかわらず両国とも実質的にソ連占領下にあった。親ソ連政権がルーマニア、ブルガリア、ハンガリーにおいて樹立し、ユーゴスラビアとアルバニアでは独自の共産政権が権力を掌握した。フィンランドは形式上の独立を保持したが政治的に孤立し、かつソ連に経済的に依存することとなった(フィンランド化)。ギリシャ、イタリアおよびフランスは、モスクワと緊密に連携した共産党の強い影響下にあった。スターリンは、ヨーロッパのアメリカ軍の撤退がヨーロッパ大陸におけるソ連の覇権に結びつくと考えた。しかしながらギリシャ内戦中の反共勢力へのアメリカ合衆国の支援は、状況を変更した。東ドイツは1949年に独立した国家と宣言された。さらにスターリンは、中央ヨーロッパの衛星国を直接コントロールする決定を下した。全ての国々は、ソ連の形式を踏襲した各国共産党によって統治されることとなった。
これらの決定は1948年にポーランド、チェコスロバキア、ハンガリー、ルーマニアおよびブルガリアの共産政権の路線変更に導かれた。これらは後に「共産主義ブロック」と呼ばれた。共産主義のアルバニアは同盟国のままだった。しかし、ヨシップ・ブロズ・チトー指導下のユーゴスラビアはソ連と国交を断絶した。
一方のアジアにおいては、第二次世界大戦の終結に伴う日本軍の撤退後に中国国内で行われていた国共内戦において、毛沢東率いる中国共産党を支援しその勝利に貢献するとともに、朝鮮戦争の勃発の後押しを行うことで西側勢力との対立姿勢を強めていった。
「共産主義ブロック」の動きは、東欧諸国が西側に友好的であり共産勢力に対する緩衝地域を形成するだろうという西側諸国の希望と正反対となり、ソ連の共産勢力拡大に対する恐れで西側の結束を強固にした。ソ連と第二次大戦における同盟国だった西側との関係は急速に悪化し、冷戦による東西対立が引き起こされた。
[編集] プロパガンダ
国内では、スターリンは自らをソ連をナチス・ドイツに対する勝利ヘ導いた偉大な戦時指導者として宣伝し、その結果、1940年代の終了までに、強力なプロパガンダ活動によりソ連のナショナリズムは増加した。いくつかの科学的な発見はソ連の研究者によって「取り戻された」。例として、ジェームズ・ワットの蒸気機関はチェレパノフ親子による発明とされ、トーマス・エジソンの白熱電球はヤブロクコフとロディジンによる発明、グリエルモ・マルコーニの無線通信はポポフによるもの、ライト兄弟の飛行機はモジャイスキーによる発明とされた。
また、第二次世界大戦前から戦後にかけて、スターリンを偉大な戦時指導者として、また、多民族国家であるソ連の指導者として賞賛する多数の映画とポスターが製作された。
[編集] 死去
1953年3月1日、ラヴレンティ・ベリヤ、ゲオルギー・マレンコフ、ニコライ・ブルガーニンおよびニキータ・フルシチョフとの徹夜の夕食の後に、スターリンは寝室で脳卒中の発作で倒れた。
暗殺を恐れていたスターリンは同じ形の寝室を複数作り、どの部屋を使うかを就寝直前に決めていた。また寝室は鋼鉄の箱のような構造になっており扉は内側から施錠すると外から開けるには警備責任者が持つただ1本の鍵を用いるしかなかった。翌朝、予定時間を過ぎてもスターリンの指示がないことに警備責任者は不審を覚えたが、眠りを妨げられたスターリンの怒りを買うことを恐れて、午後になるまで何もしなかった。このために発見が遅れ容態を重篤なものにしたと言われる。
発作は右半身を麻痺させ昏睡状態が続いた。一時は意識を回復したが重い障害のために意思の疎通はできなかった。4日後の1953年3月5日に危篤に陥り、73歳で死去した。死因は脳内出血として公式発表された。遺体は1961年10月31日までレーニン廟で保存され、その後クレムリンの壁に埋葬された。
[編集] 死因にまつわる噂
スターリンの死に関して、彼が殺害されたということが数名によって主張された。1993年に公表されたヴャチェスラフ・モロトフの政治回顧録では、ベリヤがスターリンを毒殺した事をモロトフに自慢したとの記述がある。
2003年にはロシアとアメリカの歴史研究家の共同グループが、スターリンはワルファリンを使用されたとの見解を発表した。またスターリンの娘であるスヴェトラーナは、スターリンが脳卒中で倒れた時、フルシチョフらがいたのにも関わらず医者を呼ばず、放置した事が死に繋がったと指摘している。信用はできないが、フルシチョフの回想録ではスヴェトラーナの証言とは正反対を記している。
2006年には、ロシアの週刊誌にて、ロシア公文書館で暗殺説を決定的に裏付ける証拠が発見されたと報じられた。内容は、その文書記録によると、倒れたスターリンに対する治療が、毒物接種時に施される物で、当初言われていた症状での治療法では絶対あり得ない治療法を施していたことなどが記されていた。これにより、スターリン暗殺説がほぼ決定的となったと結論づけている。
[編集] 性格
スターリンは、ロシア帝国時代において少数民族と認識されていたグルジア人である。また、身長も低く加えて自身がグルジア人であるというコンプレックスは相当強かったようである。人一倍コンプレックスを強く感じるゆえ、スターリンは異常なまでの権力欲、顕示欲の塊でその目的を達する為には全く手段を選ばなかった。他人を殺してもなんとも思わない冷酷な性格で、裏切り者を絶対に許さない不寛容であり、粛清した政敵の写真を見て悦に入りながらワインを飲んでいたと言う。
スターリンはもともと人間不信だったのだが、権力を得る過程において独裁者にありがちな人間不信が追加されることにより、猜疑心が極限までに加速。この結果パラノイアに冒され常に命を狙われていると思い込んでいた。その典型例が、ユダヤ人が自分の命を狙っていると被害妄想をして、ユダヤ人の主治医を粛清した。これを医師団陰謀事件と言う(生き残った者は一人)。
スターリンは妻子などの近親者にも心を開くことはなく、多くの近親者も不幸な最後を迎えた。
この性向は晩年に近づくほどひどくなり、さらに晩年には痴呆も入り、スターリンの住居には厳重な警備がしかれ、スターリンの部屋は複数に分かれどこに泊まるか誰にも知らされず、部屋にスターリンしか持っていない鍵を何重にもしていた。フルシチョフの回想によると、同志との会話で、スターリンの部屋へ行くとまた鍵が増えているのだろう、と話していた。むろん、勝手に入ったものなら容赦なく粛清された。ちなみにスターリンが部屋に入るとまずすることは、ランプを持って部屋の隅々を検査をすることだった。
権力の絶頂期には、部下に対して常に粛清をちらつかせながら接するようになった。スターリンの質問に「No」の返事をすると粛清。曖昧な返事でも粛清。スターリンは少年時代に「目をそらすことは何かをたくらんでいる証拠である」と叱られた経験を持ち、これを忠実に覚えており、スターリンと会話をする時、目をそらした者は粛清の対象となった。この為、共産党員、軍将校がスターリンと会話する時、必死に目を見たという。しかし、逆に部下と話す時は恐怖に怯えた顔で会話をしていたと言う。
スターリンのよき友人でいられたのは、同じく絶対権力者であったフランクリン・デラノ・ルーズベルトぐらいであろう。しかし、ルーズベルトは第2次世界大戦の終結を見ることなく他界した。以降、スターリンはアメリカによるソ連への侵攻にも怯えるようになった。
スターリンは、かつてのロシア最大の暴君、イヴァン雷帝を信仰していた。スターリンはイヴァン雷帝を自らの師と崇めていたが(スターリンが絶対権力の階段に登る過程は、規模が違うだけでイヴァン雷帝の手法を模倣したものである)、その粛清した人数はイヴァン雷帝のそれを遥かに凌駕するものだった。また、セルゲイ・エイゼンシュテインに雷帝の生涯を描かせた映画の製作を命じるも、第2部において、描写をめぐって対立。その際、イヴァン雷帝を演じていた俳優とエイゼンシュテインをクレムリンに呼びつけ、夜を徹して議論したという。一方で、スターリンはイヴァン雷帝の粛清の詰めの甘さを批判している。
また、スターリンは宿敵であるヒトラーに親近感を抱いていたと言われることがある。大戦末期に当時イギリスの外務大臣であったイーデンと会談した時、スターリンはヒトラーを賞賛するような発言をした。しかし、イーデンが唖然としているのに気が付いたスターリンは慌てて「ヒトラーは欲望の限界を知らないが、自分は満足というものを知っている」と発言して西ヨーロッパへの野心がないことを表明したという。
[編集] 容貌
一般的に知られているスターリンの容貌は益荒男な美男子であるが、これはプロパガンダ用の写真や絵(ロシア貴族風に描かれている)の影響であり、実際は全くと言っていいほど違う(金正日のプロパガンダ絵画と実物と同じくらい違う)。グルジア人である彼の目は釣り上がっており、『アジア人』とあだ名をつけられていた。
スターリンに会ったことのある国連大使が言うには「スターリンの顔は醜い痘痕顔であり、片手(左手)に麻痺がある風采のあがらない小男」であったという。片手の麻痺は少年時代の病気(後述の天然痘とも、それとは別の病気とも言われている)によるもので、ポツダム会談などでの映像をよく見ると、左手はまるで義手を装着しているかのようにほとんど動かない。つまり拍手をしている写真や左手を動かしている写真の人物は影武者である。さらに片方の足の指の一部がくっついていた。
またスターリンの身長は163cm程度でこれに非常に気にしている為、シークレットブーツを履いており、写真で写る時は遠近法で大きく見せる為に必ず前の椅子で座っていた(余談だがヒトラーも173cmでドイツ人としては背が低くシークレットブーツを履いていたというが、真偽は定かではない)。レーニンをミイラにした男という本によると、スターリンの防腐処理を担当したデボフという男が言うには、スターリンの顔は天然痘によってできるあばたと茶色のシミでいっぱいで、プロパガンダ用の写真と絵とは大きくかけはなれており、衝撃を受けたということである。
なおヤルタ会談での映像を見ると頭頂部にハゲ(てっぺんはげ)があるのが確認できる。ただしこうした会談に出てくるのは影武者だという説もある。
スターリンが天然痘に冒されたのは少年時代のことであるが、写真では確認できないものの、白黒の動いているスターリンのビデオをよくよく見てみると顔がすだれているのを確認することができる。しかし、レーニンの隣に遺体を展示されている時はプロパガンダの為、がっしりした体つきであばたもなくなっていた。
[編集] エピソード
- 権力絶頂期、よく側近を呼んでパーティをしていたが、食事は絶対に最初にはとらず、部下に毒見をさせてから食べていた。
- 車で移動する時、装甲車並みの車を必ず自分で運転をして、先頭車両を必ず取り、目的地に着くまでにランダムに迂回していた。
- 猜疑心の強いスターリンはホー・チ・ミンと初めて出会ったとき、スパイと疑っていた。ホー・チ・ミンはスターリンに会えた感激で、スターリンにサインを求めたとき、しぶしぶながら応じた。しかし、部下に命じてホー・チ・ミンの留守中にサインを強奪して取り戻し、ホー・チ・ミンがサインがなくあわてていた様を聞いて喜んでいた。
- スターリンとの趣味の一つに映画鑑賞があった。アメリカの映画を良く取り寄せ側近達と見ていたが側近の一人に翻訳をさせていた。ただし英語がわからぬ側近ばかりで実際にはアドリブで適当な言葉をしゃべっていた。
- スターリンは昼頃に起床し午後から仕事を始めていた。その為仕事が終わるのは当然夜遅く午前1-3の間が多い。仕事が終わってから部下を呼び出しパーティをするということを頻繁にしていて、側近は普通に仕事をしていたから仕事が終わってからスターリンの呼び出しを喰らい、朝まで付き合わされるということがしばしばあり、寝不足な部下が多く、さらに酒を浴びるほど飲むことがほとんど義務付けられる為、スターリンの側近は全員アル中だった。
[編集] スターリンに関わる「名言」
- 「一人の人間の死は悲劇だが、数百万の人間の死は統計上の数字でしかない。愛とか友情などというものはすぐに壊れるが恐怖は長続きする」
- 「ろくでなしがくたばりやがった」(ベルリン陥落の際ヒトラー自殺の報告を聞いて)
- 「あいつは銃をまっすぐに撃つ事もできんのか」(自分の長男がピストルによる自殺未遂で失敗した時)
- 「チベット攻撃?けっこうな事だ」(毛沢東からチベット侵攻の許可を求められた時の返事)
- 「人命以外何も失ってはいない」(朝鮮戦争の休戦を求める金日成の要請に対しての返答)
- 「我々は同じアジア人だ」(1941年4月13日、日ソ中立条約調印時、スターリンが日本の外務大臣である松岡洋右に言った言葉)
[編集] 参考文献
- 産経新聞/齋藤勉『スターリン秘録』(産経新聞社)
- ステファヌ・クルトワ/ニコラ・ヴェルト『共産主義黒書(ソ連篇)』(恵雅堂出版)
- エドワード・ラジンスキー著、工藤精一郎訳 『赤いツァーリ スターリン、封印された生涯(上、下)』 日本放送出版協会 1996年 ISBN 4-14-080255-3 ISBN 4-14-080256-1
[編集] 関連項目
- 独裁
- 全体主義
- テロ
- 蒋介石
- 蒋経国
- 宋美齢
- フランクリン・D・ルーズベルト
- アレクセイ・スタハノフ
- ゲーペーウー
- 日中戦争
- 中国国民党
- スターリングラード
- スターリン様式
- トロツキズム
- 有田芳生 -- スターリンから「よしふ」の名を採る。
- ソビエト連邦最高指導者
- 1922 - 1953
-
- 先代:
- ウラジーミル・レーニン
- 次代:
- ゲオルギー・マレンコフ