天神山城 (備前国)
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天神山城(てんじんやまじょう)は、日本の城。所在地は岡山県和気郡和気町田土。岡山県指定史跡。
[編集] 概要
戦国時代の大名・浦上宗景一代47年間の間に存在した連郭式の山城である。和気町の市街地から国道374号を北上した国道沿いの天神山(409m)の山上に位置する。城山は峻険で西側に吉井川が流れており天然の堀をなしていたものと思われる。
標高409mの山頂に本の丸が配され、北西に向かって山上伝いに二の丸、三の丸が配されていた。また、本の丸の南側には馬屋の段、南の段等の曲輪が存在していた。
現在は曲輪、土塁、石垣、空堀、侍屋敷跡などの遺構が見られる。
[編集] 沿革
浦上氏は室町時代、播磨・備前・美作を治めた守護大名赤松氏の守護代であった。 天神山城を築いた浦上宗景の父・村宗は主君である赤松義村を凌駕し、守護代から一躍戦国大名となった。
享禄4年(1532年)、村宗の戦死後、家督を相続した長兄で播磨室津城主の政宗と折が合わず出奔した。その年、備前天神山に城を築いた。これが天神山城の始まりである。
天文12年(1543年)備前守護赤松晴政が備前に侵攻したが、宗景はこれを退け播磨の諸城を攻め落とし、備前での支配権を確立した。
宗景はかつて浦上被官であった宇喜多能家の孫で放浪の身であった直家を召し抱えた。 有能な直家は頭角を現し宗景の片腕となって活躍し、その助力もあり宗景の備前・美作地域の支配は次第に強固なものになっていった。
永禄7年(1564年)兄の政宗は室津城において、長子・清宗の婚礼の当日、赤松政秀の攻撃に遭い父子ともに戦死した。この機に乗じて宗景は播磨の支配権をも手中に収めることとなった。
天正元年(1574年)宗景は西国に勢力を伸長してきた織田信長と結び、備前・播磨・美作の支配権を認められた。しかし、次第に家中での勢力を拡大し主従の力関係を逆転しつつあった宇喜多直家は、これに反対し安芸の毛利氏と結んだ。
天正2年(1574年)直家は遂に主君宗景に反旗を翻した。浦上政宗の次男忠宗の子で直家が岡山城に庇護していた久松丸を奉じ、浦上宗家復興を名目に天神山城の宗景を攻めた。 天正3年(1575年)家中で直家に内応するものもあり、遂に宗景は城を放棄し播磨へ遁走した。その後、直家はこの城を焼き払ったと伝えられ、天神山城は廃城となった。