天野貞祐
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天野 貞祐(あまの ていゆう、1884年9月30日-1980年3月6日)は、大正・昭和期の哲学者・教育者・文学博士。京都帝国大学名誉教授。戦後は第一高等学校校長・文部大臣(第3次吉田内閣)を務めた後に獨協大学を創立した。
神奈川県津久井郡鳥屋村(現在の城山町)の豪農の出身、父・藤三は自由民権運動に参加して後に村長・衆議院議員を務めた。父は教育熱心な人物であり、天野も将来医師になる事を嘱望されて13歳の時に獨逸学協会学校(旧制中学、獨協学園の前身)に入学した。そこで野球と出会い、野球部の選手として活躍したが足を痛めて退部、更に追い討ちをかけるように母をチフスで失い、4年生の時に退学してしまう。
だが、21歳の時に内村鑑三の『後世への最大遺物』を読んで、自分の人生を見つめなおした天野は獨協の5年生として復学して翌年には首席で卒業した。当時の獨協の校長であった大村仁太郎に憧れて教育者へと志望を転向して第一高等学校に入学、九鬼周造・岩下壮一とは親友になった。その後京都帝国大学・同大学院に進学してカント哲学を専攻した。
1913年、『カント学者としてのフィヒテ』を発表、翌年には第七高等学校のドイツ語教師として赴任した。更に西田幾多郎らの推挙を受けて学習院教授、続いて母校・京都帝国大学助教授を務める。この間1922年から翌年にかけてドイツのハイデルベルク大学に留学して哲学研究に打ち込み、1930年にはイマヌエル・カントの代表作『純粋理性批判』を初めて日本語訳する事に成功した。
1931年、京都帝国大学教授となった天野であったが、1937年に出した『道徳の感覚』が台頭する軍部と軍国主義に対する批判が含まれていたことから、軍部や右翼、マスコミが天野を糾弾、自主絶版という事で不問に付されたものの、その後も『学生に与ふる書』(1939年)を著すなど、時流に流される世の中に警鐘を発し続けた。
1944年、京都帝国大学を定年退職した天野は甲南高校(現在の甲南大学)学長在任中に終戦を迎えた。翌年天野は母校・第一高等学校校長に就任、その後は安部磯雄の急死にともなって日本学生野球協会会長・日本育英会会長を歴任、1950年には吉田茂に乞われて2年間文部大臣を務めた。
大臣退任直後、天野は青春時代を過ごした母校・獨逸学協会学校の後身である獨協学園が戦後日本の国家スタイルがドイツ型からアメリカ型に移行するに伴って衰微している事を知ると、母校再建のために校長就任要請を受諾して、自らが信条とする「学問を通じての人間形成 」の精神に則った「獨協再建」に尽くす事になる。やがて、遅ればせながら獨協にも大学を創設すべきだと言う声に支えられて1964年に獨協大学を創立して初代学長に就任するのである。
だが、戦後の日本は「オールド・リベラリスト」の天野にとっては意に沿うことばかりではなかった。一高校長時代には大学制度改革に際して「東京帝国大学(東京大学)を一般の大学と同じにしてしまうと東大を頂点とした大学の格付けが生まれて受験競争が発生してしまう」として学部を置かない大学院大学にする事を提案したものの退けられ、文部大臣時代には戦後の人心の荒廃を憂慮して道徳教育の必要性を唱えたところ、日本社会党などの野党や日教組から「反動的な修身教育の復活だ」と糾弾された。獨協大学創立にはこうした時流に対する天野の抵抗の意味もあったとされている。だが、やがて学生運動の嵐が獨協大学にも及ぶようになると、学生達から天野の方針を批判する声が高まってきた。これを受けて1969年、天野は学長退任に追い込まれた。
その後も獨協学園の学園長として学校運営に関わる一方で、1973年には教育面で勲一等旭日大綬章を、学生野球の面で野球殿堂(特別表彰)が贈られた。1980年に96歳で死去した時には従二位と銀杯一組が贈られている。
墓は尊敬する大村仁太郎の眠る雑司が谷墓地と故郷の天野家の墓に分骨されて、後に妻のタマ(1990年に102歳で死去)も同じようにして葬られた。