宇都宮城の戦い
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宇都宮城の戦い(うつのみやじょうのたたかい)は、慶応4年(1868年)に旧幕府軍が下総市川の国府台から北上し日光、会津へ向かう途中に起きた戦い。戊辰戦争の戦闘の一つ。
[編集] 旧幕府軍
慶応4年(1868年)4月に下総市川の国府台に幕臣などが集まり、約2000人の旧幕府軍が誕生した。この中には、大鳥圭介、土方歳三、新選組などが集まった。
先鋒軍は二手に分かれ秋月登之助が率いて下妻に向かい、もう一体は土方が率いて下館へ向かった。
4月17日土方は下館城を包囲し大手前に大砲を設置し下館藩を旧幕府軍への参加を要請した。しかし下館藩主石川総管の病気などで参加拒んだため物的支援の供出だけで飲んだ。
その後秋月隊は下妻藩から兵を供出させ土方隊と合流し、翌4月18日に宇都宮へ向かった。
[編集] 宇都宮城
先鋒軍は4月19日未明に宇都宮城を攻撃した。土方率いる桑名藩軍は城の南東の簗瀬橋を突破し下河原門に攻め寄せた。新政府軍も奮戦し激戦となる。秋月率いる伝習第一隊は中河原門に攻撃し、回天隊は南館門に攻撃した。
その激しさに耐えられなくなり、敵前逃亡を図った1人の兵士は土方によって斬られ、「退却するものは誰でもこうだ」と言い放った。これにより旧幕府軍の士気が上がり下河原門を突破。新政府軍が二の丸に火をかけ退却し宇都宮城はわずか1日で落城した。宇都宮城の炎は夜通し消えることはなかった。
新政府軍は宇都宮城の奪還に向け4月21日に宇都宮城へ向け進軍。壬生城を攻撃するため南下した旧幕府軍を新政府軍が姿川で阻止し川を挟んで対峙する形となったが新政府軍の援軍が到着し旧幕府軍は退却した。
4月23日の朝、新政府軍は宇都宮城に向け攻撃を開始した。城下の入り口にあたる六道の辻が攻防の最前線となり激戦となった。六道の辻が新政府軍に落ちると、新政府軍は宇都宮城及び宇都宮大明神(宇都宮二荒山神社)に向け大砲による砲撃を開始した。土方は桑名藩隊を率いていたが二荒山神社で足の指を被弾し負傷し、秋月も負傷した。これにより戦場を離脱し今市へ護送された。やがて宇都宮城は陥落した。
今市に護送された土方と秋月は会津へ向かった。
なお、この戦いの直前に、日光で新政府軍と旧幕府軍が対峙した。しかし新政府軍の大将板垣退助は「日光は徳川家康以来の文化的·国家的財産が多く集まっており戦火でそれらを失うには忍びない」と考え、旧幕府軍に使者を送り、対決の場所を替えようと主張した。旧幕府軍側も同調し、日光は戦火を免れた。
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