安藤季長
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安藤 季長(あんどう すえなが、生没年不詳)は、鎌倉時代末期の陸奥国の武将、御内人。名は貞季、資長とも伝わる。安藤又太郎と称した。また、譲状を残している安藤宗季を季長の別名とする意見がある。父は安藤堯秀や安藤季俊とする系図があるが信憑性に乏しく詳細は不明。本姓は安倍。蝦夷代官職として津軽地方を中心として得宗領の管理等を行ったが、従兄弟とも父の従兄弟とも伝わる五郎三郎季久と蝦夷代官職を争い、蝦夷大乱を引き起こした。
季久との争いは、1318年(文保2年)以前から続いていたと見られているが、1322年(元亨2年)に得宗家公文所の裁定にかけられた。『保暦間記』等によれば、内管領の長崎高資が双方から賄賂を受け双方に下知したため紛糾し、更に得宗家が蝦夷代官職を1325年(正中2年)に季長から季久に替えたこともあり、内紛が反乱に繋がったと見られている。
その後も季長は得宗家の裁定に服さず戦乱は収まらなかったため、翌1326年(嘉暦元年)には御内侍所工藤祐貞が追討に派遣された。祐貞は旧暦7月に季長を捕縛し鎌倉に帰還したが、季長の郎党季兼や悪党が引き続き蜂起し、翌1327年(嘉暦2年)には幕府軍として宇都宮高貞、小田高知が再び派遣された。翌1328年(嘉暦3年)に至り安藤氏の内紛については和談が成立し、季長は捕らえられて鎌倉に連行された。以後の消息は不明であるが、諸系図や伝承等から湊上国系安東氏との関係を指摘する見解がある。
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