宗義智
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宗義智(そう よしとし、永禄11年(1568年) - 慶長20年1月3日(1615年1月31日))は安土桃山時代から江戸時代初期にかけての大名。対馬守。妻は小西行長の娘(名は不祥。洗礼名はマリア)。宗将盛の五男。
[編集] 経歴
1580年、家督を継いだ。豊臣秀吉の九州征伐の際に、養父の宗義調と共に秀吉に降伏。対馬一国を安堵される。その後、秀吉の朝鮮出兵を避けるため、義父の行長や島井宗室らと共に李氏朝鮮との交渉に尽力する。
1592年からの文禄の役、1597年からの慶長の役にはいずれも参加して戦ったが、行長の密命を受けて、裏で必死に和平交渉に奔走したと言われている。1600年の関ヶ原の戦いでは西軍に与して伏見城攻撃に参加し、大津城攻めや関ヶ原本戦では家臣を代理として参加させた。しかし戦後、朝鮮との国交修復を迅速に進めることを望んでいた徳川家康より罪には問われず、所領を安堵され対馬府中藩初代藩主となったのである。
以後、義智は朝鮮出兵で崩れた国交の修復交渉に努め、1609年に朝鮮との和平条約を締結することに成功したのである。