対馬国
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対馬国(つしまのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった国の一つである。西海道に含まれ、その領域は現在の長崎県の対馬である。対州と呼ばれることもある。延喜式での格は下国、遠国。
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[編集] 沿革
対馬国の初見は、『三国志』魏志倭人伝の對馬國(対馬国)である(三国志のテキストの間でも版によって表記が異なり、現存する最古の版である紹興(しょうこう)本では對馬國、よりポピュラーな版である紹煕(しょうき)本では對海國となっている)。倭人伝の「今、使訳を通ずるところ三十国」のうちの一国。日本では津島とも書かれたが、7世紀に律令制の地域区分として対馬国が設けられると、対馬に定まった。対馬国は、対馬島とも呼ばれ、その国司は島司とも呼ばれた。
[編集] 国府・一宮など
国府は下県郡にあった。現在の対馬市厳原町と推測されているが、未だ遺跡は見つかっていない。
延喜式神名帳には大社6座6社・小社23座23社の計29座29社が記載されている。大社は全て名神大社で、以下に示すものである。
- 上県郡 和多都美神社(論社 和多都美神社(対馬市豊玉町)・海神神社(対馬市峰町))
- 上県郡 和多都美御子神社(対馬市豊玉町 ほか論社3社)
- 下県郡 高御魂神社(対馬市厳原町)
- 下県郡 和多都美神社(論社 八幡宮神社(対馬市厳原町)・乙和多都美神社(対馬市厳原町))
- 下県郡 太祝詞神社(対馬市美津島町)
- 下県郡 住吉神社(対馬市美津島町)
一宮は海神神社(対馬市峰町)である。二宮以下は存在しない。総社は不詳である。
[編集] 歴史
[編集] 弥生時代
魏志倭人伝には対馬国という国が登場する。以下のように説明されている。
- 始度一海千余里 至対馬国 其大官曰卑狗 副曰卑奴母離。所居絶島 方可四百余里。土地山険 多深林 道路如禽鹿径。有千余戸。無良田 食海物自活 乗船南北市糴。
はじめて一つ海を渡る。一千余里ある。対馬国に至る。そこの大官(長官)は卑狗(ひこ、ひく)といい、副官は卑奴母離(ひなもり)という。住んでいるところは海に囲まれた島で、広さは四方四百余里ばかりである。その土地は山が険しく、深い森が多く、道路はけものや鹿の通り道のようである。また人家は千余戸がある。良い田がなく、海の物を食べて自活し、船に乗り南や北に海を渡って穀物を買い入れている。
[編集] 平安・鎌倉時代
阿比留氏などの在庁官人が対馬を現地支配していた。その後、大宰府少弐氏の被官宗氏が全島を統一した。
1019年、女真族(満州族)と見られる一団が高麗沿岸を襲い、さらに対馬にも現れた。一通り略奪を繰り返した後北九州に移り、そこで藤原隆家によって鎮圧された。(刀伊の入寇)
1274年と1281年の二度に渡って元寇の襲来を受け、宗助国は迎撃したが戦死。一時元軍に占領された。その際、住民の男性は虐殺され、女性は手に穴を開けられ紐を通して繋がれ連れ去られたと高麗史には記述されている。
[編集] 室町・戦国・安土桃山時代
13世紀頃、少弐氏が大内氏によって大宰府を追われると、宗貞盛は九州に出兵して大内氏と戦った。しかし、少弐氏が滅亡したので対馬に戻った。
倭寇の主要根拠地の一つとされ、この制圧を目的として李氏朝鮮軍が1419年(応永26年)に大規模な侵攻を行い、宗氏との1ヶ月にわたる戦闘の後撤退した(応永の外寇)。その後、宗氏は1443年に朝鮮と嘉吉条約を結んで、以後日朝間の窓口となった。
しかし、1510年には朝鮮で三浦の乱が発生。宗氏は日朝貿易への影響力拡大を狙い反乱を支援したものの鎮圧され、在留日本人は追放。対馬と朝鮮の関係も1512年まで途絶する。
1592年、豊臣秀吉が朝鮮出兵を行った。貿易収入が失われることを恐れた宗氏は戦争回避のため奔走した。開戦後は釜山と名護屋城との中継地となった。
関ヶ原の戦いでは西軍に付いたものの、領土を安堵された。
[編集] 江戸時代
宗氏を藩主とする対馬府中藩(10万石格)が幕末まで支配した。
江戸初期対馬藩は李氏朝鮮との国交再開のために尽力。幕府と李氏朝鮮との関係を保つため、しばしば双方の国書を改竄した。それを有力家臣の柳川氏が告発、柳川一件に発展した。
なお江戸時代には鎖国政策がとられていたが、対馬藩は朝鮮通信使の先導役を勤め、現在の釜山市に倭館を置き交易をおこなった。
[編集] 守護
[編集] 鎌倉幕府
[編集] 室町幕府
- 1344年 - 少弐頼尚
- 1378年 - 宗澄茂
- 1392年~1398年 - 宗頼茂
- 1400年~1403年 - 宗貞茂
- 1414年~1452年 - 宗貞盛
- 1468年 - 宗成職
- 1468年~1492年 - 宗貞国
- 1492年~1508年 - 宗材盛
- 1510年~1520年 - 宗義盛
- 1520年~1521年 - 宗盛長
- 1542年~1554年 - 宗晴康
- 1555年~1560年 - 宗義調