宮部継潤
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
宮部 継潤(みやべ けいじゅん、享禄元年(1528年) - 慶長4年3月25日(1599年4月20日))は、戦国時代の武将。宮部長房の父。
近江国浅井郡宮部村の小豪族の出自。もとは比叡山の僧侶であったが、故郷に戻り、近江の戦国大名・浅井長政の家臣として仕えるようになる。武勇に優れた一面もあり、長政に従って織田信長との戦いで活躍したが、元亀2年(1571年)10月に木下秀吉の調略に応じてその家臣となった。居城である宮部城は、小谷城攻めには欠かせない重要拠点だったこともあり、天正元年(1573年)8月の小谷城落城まで多く勲功を上げている。この時期にに秀吉の甥(後の豊臣秀次)を養子としているが、事実上の人質であったようで、浅井氏滅亡後は秀吉の元に返還されている。
その後は秀吉の与力につけられて中国遠征などに従い、天正10年(1582年)に因幡鳥取城の城代となった。本能寺の変後、秀吉が大きな権力を握るようになると正式に鳥取城主となり、5万石を領した。九州征伐にも参戦した。慶長元年(1596年)、高齢を理由に子の長房に家督を譲って隠居した。秀吉からの信任は厚く、晩年は秀吉の御伽衆として、秀吉の相談相手を務めたと言われている。