小山田信有
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小山田 信有(おやまだ のぶあり、長享2年(1488年) - 天文10年(1541年))は甲斐の郡内地方(甲斐東部)の有力国人小山田氏当主。孫三郎。越中守を称した。父(又は兄)は小山田信隆。出羽守を称した小山田信有の父。小山田信茂は孫。桓武平氏。秩父党の末裔。
1508年に、先代当主の信隆は油川信恵に加担し武田信虎と争い敗れ戦死したため家督を継いだ。 一時北条氏の下に逃れたが、のち信恵派の生き残りの工藤虎豊らとともに武田氏に帰参し、1511年には信虎の妹と縁組し、以後は一門衆として遇された。隣国の駿河今川氏・相模北条氏とはその後もたびたび争った。 1541年、没。
小山田 信有(おやまだ のぶあり、永正16年(1519年) - 天文21年(1552年))は甲斐の郡内地方(甲斐東部)の有力国人小山田氏当主。出羽守を称した。越中守を称した小山田信有の子。小山田信茂の父。桓武平氏。秩父党の末裔。
祖父(又は伯父)の小山田信隆や父の越中守信有は武田信虎とたびたび争ったが後に姻戚関係を結び臣従し、以後小山田氏は武田家に代々一門衆として厚遇された。
越中守信有の子の出羽守信有は智勇に優れ、武田信玄(当時は晴信)の信濃攻めで笠原清繁の未亡人を与えられるなどいくつもの軍功を挙げたが、1550年村上義清との戦いである有名な砥石崩れのときに大敗して重傷を負い、それが元で1552年に死亡。葬儀には多くの人が参列したという。