岡田正泰
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岡田 正泰(おかだ まさやす、1931年4月8日 - 2002年7月30日)は、ヤクルトスワローズの私設応援団「ツバメ軍団」団長。東京都出身。
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[編集] 来歴・人物
まだプロ野球黎明期の1952年、当時の国鉄スワローズ創設3年目から「江戸っ子の判官びいき」でスワローズを熱心に応援。
「どこの家にでもある」傘による応援を生み出し、「応援に金をかけるな、その金をチケットにまわせ」が信条。東京音頭を応援歌に定着させ、現在の応援の定番となっているメガホンの元祖も考案した。家業は看板製作会社「オカダ工芸」。その腕を生かし「神様勝たして下さい」「まだある優勝」など、手作りの横断幕を持ち込み観客を楽しませ選手を励ました。
2002年7月19日からの札幌遠征にも駆けつけたが、東京との気温差から帰京後に体調を崩し7月30日に急逝した。
[編集] 応援の歴史
1952年ごろ、当時まだ結婚していなかった妻と後楽園球場にデートに行き、読売ジャイアンツ対国鉄スワローズを観戦。その際、国鉄ファンの余りの少なさ、巨人ファンからの野次の酷さを見かねて国鉄を応援しはじめる。ファンの少ない国鉄を応援するにはなんとか音を大きく響かせねばならないと、家庭のフライパンを叩いて応援。当時は今と違い、鳴り物の応援はほとんど無かったため相当な奇異のまなざしで見られたという。
1960年代から1970年代になり、徐々に仲間も増えると「誰でも知っている」東京音頭を唄い、いつの間にか「ヤクルトおじさん」と呼ばれるようになり一躍人気者になる。1978年にヤクルトが念願の初優勝を果たすと、テレビや雑誌からひっぱりだこになった。神宮球場でリーグ優勝を決めた時には、号泣している場面がテレビでも映し出され、岡田団長をファンが囲んで優勝を祝福した。
1980年代のヤクルト低迷期にも「神様勝たしてください」「今日は勝ち鯛」などのユニークな弾幕でファンと選手を楽しませた。また、今では有名な傘を使っての応援は、「少ないファンをなるべく多く見せる」ことが目的であった。「次の巨人戦に傘を持ってきてください」という張り紙を書いたところ、最初3人ほどが持ってきたという。当初傘は黒のこうもり傘であったが、色が黒=黒星を連想することや、物理的に視界が遮られ観戦の邪魔となることからビニール傘を使用するようになった。現在では、小型のビニール傘が公認グッズとして神宮球場売店で売られており、修学旅行生などが大量に買う姿を見ることが出来る。ただし、岡田本人はこのビニール傘の販売を批判している。それは、家から持ってこれる物として傘を採用したので、わざわざ球場で買うことはない。それならチケットを買ったほうが良いという理由からだった。
1990年代に入ってヤクルトが優勝チームの常連になっても「ファンを楽しませたい」という一心で明治神宮野球場に足を運び、声を枯らしてヤクルトを応援し続けた。ヤクルトファンは岡田のことを尊敬の念をこめて「オヤジ」と呼んだ。「オヤジ」は来期もライトスタンドからヤクルトを見守っている。今でもライトスタンドには、在りし日の写真と、お供え物や花などが飾られている。
[編集] 愛されたキャラクター
岡田は生粋の江戸っ子であるため、たいへんに口は悪いが、実はとても優しい人柄であった。そんなところに引かれて私設応援団に入る若者も多かった。
その類稀なキャラクターから、スワローズファンであるいしいひさいちが自作「がんばれ!!タブチくん!!」に登場させ、同作のアニメ化によって広く知られるようになった。テレビ出演も多く、1991年にはビートたけしとの共演をも果たすだけでなく、その強烈なキャラクターでたけしを完全に食ってしまっていた。
また、そのキャラクターは選手にも愛され、1978年の初優勝時には大杉勝男に招かれ場内をトロフィーをひいて一周した。
選手とファンが共にトロフィーをひくというのはたいへんに珍しいことであった。初優勝時の広岡監督をはじめ、ヤクルト監督就任の際には岡田に挨拶に行くのがいつのまにか当たり前になっていた。そして挨拶に行った監督自身、岡田ファンのひとりになって帰っていくのである。選手からの人気も高く、引退した池山隆寛、荒木大輔らはおおいに岡田のことを慕った。
晩年は肺を患っていたため東京以外に応援に行くことはなかったが、北海道のファンは飛行機のチケットを手配して岡田を招いていたという。
[編集] 応援ポリシー
「たとえ大敗しようとファンに楽しんで球場から帰途についてもらいたい。ファンに喜ばれるというのがオレのポリシーだ。強制なんかしねえよ。応援を楽しむことによりファンがノって、そのファンの応援で選手をのせられれば、最高じゃないか。な、そうだろ」