岩国藩
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岩国藩(いわくにはん)は、周防国大島郡及び玖珂郡を領地とした藩。吉川藩とも言う。藩庁は岩国城(山口県岩国市)。
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[編集] 概要
毛利元就の二男吉川元春の三男である吉川広家を祖とする。長州藩の支藩のひとつである。
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いで広家は東軍方に内通し、西軍方についた本家・毛利氏の兵を動かさなかった。当初、徳川家康より所領安堵の約束を取り付けていたが、戦後、毛利家を取り潰し、吉川家を取り立てようとする幕府の動きを阻止し、毛利宗家と幕府方を周旋する。これにより毛利氏は西軍総大将であったが長門国・周防国二国に減封されるに止まった。広家は豊臣時代には出雲国で14万石を領していたが、毛利宗家が120万石から36万9千石に減封されたのに伴い、毛利輝元より東の守りとして、岩国に3万石(長州藩の内高に含まれる)を与えられた(同年(1600年)、岩国へ着任)。
しかし毛利家中からは、吉川氏は関ヶ原の戦いに於いて主家を裏切ったと見ていた。そのために長州藩内部から冷遇され、独立の藩とは認められずに長く陪臣として扱われ、将軍に直接目通りすることを許されなかった。しかし一方で徳川幕府からは外様大名として扱われ、参勤交代の義務や、城の築城許可が与えられていたという、江戸時代を通じて、諸藩の中でも極めて異例な状態が続くこととなった(しかし岩国領は独自の領国経営を行っているため、輝元から建前上陪臣と扱われていたとも考えられる)。
このような状況を解消し、独立した藩として正式に認められたのは、幕末の慶応4年(1868年)3月、12代・経幹の代になってである。
石高は当初表高3万石であったが、寛永11年(1634年)実高である6万石を公称し幕府からも認められた。
延宝元年(1673年)3代・広嘉の時代に、有名な錦帯橋が完成している。
和紙を専売とし江戸中期までは藩財政は好調であったが、中期以降、諸侯に列するための運動や凶作により悪化した。寛政年間(1789年~1801年)より財政再建に着手し天保年間(1830年~1844年)には再建の成功をみた。
元治元年(1864年)~慶応元年(1865年)の長州征伐に際して、経幹は長州藩と幕府の間に立って周旋を行い、幕府方の派兵の延期を取り付けているが、この行動も高杉晋作などの倒幕派は裏切り行為として見ていたようである。
明治4年(1871年)廃藩置県により岩国県となり、山口県に編入された。
吉川氏は明治17年(1884年)には子爵となり華族に列した。
[編集] 歴代藩主
吉川(きっかわ)家
- 広家(ひろいえ)〔従四位下・民部少輔、侍従〕
- 広正(ひろまさ)
- 広嘉(ひろよし)
- 広紀(ひろのり)
- 広逵(ひろみち)
- 経永(つねなが)
- 経倫(つねとも)
- 経忠(つねただ)
- 経賢(つねかた)
- 経礼(つねひろ)
- 経章(つねあきら)
- (初代藩主)経幹(つねもと)〔従五位下・駿河守〕
- (2代藩主)経健(つねたけ)〔正四位・駿河守〕
[編集] 岩国城
岩国城は周防国に存在する唯一の城であったが、幕府からの一国一城令により破却されている(岩国は長州藩領であり、すでに萩に萩城が築城されていたという理由で、宗藩より破却の命があったと言われているが、毛利輝元の養嗣子であった毛利秀元の長府藩が陣屋であったため、宗藩が秀元に配慮し岩国の築城を認めなかったという説がある)。現在の天守閣は、昭和37年(1962年)に復元されたものである。