島津忠恒
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島津 忠恒(しまづ ただつね、天正4年11月7日(1576年11月27日) - 寛永15年2月23日(1638年4月7日))は江戸時代の外様大名。島津義弘の三男で初代薩摩藩主。戦国大名としての地盤を築いた島津忠良のひ孫。戦国大名としての島津氏を成長させた島津貴久の孫にあたる。後に家久(いえひさ)と改名するが、同名の叔父が存在するために、区別するために初名である「忠恒」と表記される事が多い。
[編集] 経歴
義弘の三男であったが、義弘の兄・島津義久に男児が無かったことと兄の島津久保が朝鮮で夭逝したため、豊臣秀吉の指名により後継者と定められた。1606年家康から偏諱をうけ、家久と名乗る(同名の叔父島津家久については別項参照)。
父や伯父同様に武勇に優れ、豊臣秀吉の慶長の役では父に従って8000の寡兵で明軍数万を破る猛勇を見せている。
1602年、父・義弘と伯父・義久より家督を継いだが、実権は1619年までは父・義弘に握られていた。1609年には琉球に出兵して、これを占領している。また、明とも密貿易を執り行ない、鹿児島城(鶴丸城)を築いて城下町を整備するなど薩摩藩の基礎を固める一方で、幕府に対しては妻子をいちはやく江戸に送って参勤交代の先駆けとした。
しかし、父・義弘と違って酷薄な性格であったようで、1599年には嫌悪していた家老・伊集院忠棟を謀殺し、その子・伊集院忠真をも殺害した。正室であり、従兄弟同士でもある亀寿姫(父は島津義久)との不仲で二人の間に実子ができないため、忠恒は幕府にかけあって2代将軍・徳川秀忠の子、国松丸(後の徳川忠長)を養子にしようと画策した。後継者問題は後々まで尾を引き、忠恒による義久の家老・平田増宗の暗殺も、家督相続にからんだものといわれている。隠居中とはいえ家中に影響力を持つ伯父義久が死去した後には亀寿姫と別居し、あてつけのように側室を18人抱えた。生まれた子らは次々と分家の家督相続や重臣らの養子として押しつけ、自身に権力を集中させる事に成功した。
1638年、死去。
- 島津氏(薩摩藩初代)当主
- 1602~1638
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- 先代:
- 島津義弘
- 次代:
- 島津光久