島津忠景
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島津忠景(しまづただかげ、仁治2年(1241年) - 正安2年(1300年))は鎌倉時代の武将・歌人。越前島津氏祖周防守忠綱の3男。忠行・忠泰の弟。本姓は惟宗氏。薩摩国知覧院(現鹿児島県知覧町)地頭職。五郎左衛門尉、周防判官、大夫判官、豊後守、常陸介。従五位下。法名素信(そしん)。
学芸に優れ、鎌倉幕府6代将軍宗尊親王の近臣として廂衆・門見参衆・御格子上下結番・昼番衆等の御所内番役に選ばれる。弘長3年(1261年)『宗尊親王家百五十番歌合』をはじめ親王や二条為氏ら主催の和歌会・連歌会に度々列席し、成熟期鎌倉歌壇における代表的な武家歌人と目される。そのためか宗尊親王からの信任が非常に厚く、『吾妻鏡』をみると親王の私的な行動にまで供奉しているのがしばしば見受けられ、兄忠行はもとより本宗家の忠時・久経らと比較しても顕著な活躍を示しているのがわかる。蹴鞠にも造詣が深く、弘長3年(1261年)には旬御鞠奉行にも選任された。気骨のある誠実な人物で、文永3年(1266年)7月3日、宗尊親王の更迭をめぐる騒動の際には多くの近臣が親王を見捨てて将軍御所から逃げ出す中、忠景ら数名のみが御所に残留し、その姿勢を『北条九代記』などに評価されている。晩年は六波羅探題に転出し、京都で活動していたようである。正安2年(1300年)5月没。60歳。彼の作品は『続古今和歌集』、『続拾遺和歌集』、『新後撰和歌集』、『玉葉和歌集』、『続千載和歌集』、『続後拾遺和歌集』、『新千載和歌集』、『新拾遺和歌集』、『新続古今和歌集』などに収録されている。