島津立久
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島津立久(しまづたつひさ、永享4年11月5日(1432年11月27日) - 文明6年(1474年)4月)は島津氏第10代当主。9代当主・島津忠国の次男。通称、又三郎。修理亮、陸奥守。
父・忠国は1470年に死ぬまで守護であったため、立久が当主としての治世は4年間に過ぎなかったが、1459年から守護的な活動は行っていたようである。
父と同じく日向国の伊東氏と和睦をし、領内は平穏な日々が続いていた。琉球や李氏朝鮮とも交易を盛んに行っていた。1467年、応仁の乱が起こり、2年後には東軍の細川勝元に味方したが、細川勝元の出兵要請は拒否して出陣せず、名目上の東軍であった。一族の豊州家島津季久は西軍の山名宗全に味方していた。これは、応仁の乱に際して他の諸大名と同様に、どちらが負けても家が存続するようにしていたためである。
1474年、43歳で死去。墓所は市来雲竜寺跡、鹿児島福昌寺跡。その跡は嫡男の島津忠昌が継いだ。
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