川島廣守
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川島 廣守(かわしま ひろもり、1922年2月27日 - )は、日本の官僚であり、プロ野球の元コミッショナーである。
[編集] 来歴・人物
福島県出身。会津中学を経て、中央大学法学部卒業後、警察庁に入庁し、公安部長・警備局長。出向にて内閣調査室長、内閣官房副長官等の要職を歴任し、退官後は日本鉄道建設公団総裁を務める。1984年に第4代セントラル・リーグ会長に就任。14年間リーグ会長を務める。1998年には吉國一郎の後を継ぎ、第10代プロ野球コミッショナーに就任。2期6年コミッショナー職を務め、2004年に勇退し、第11代コミッショナーとして根來泰周を推薦している。
セ・リーグ会長時代の川島の功績については論が分かれる。リーグ会長末期(1990年代後半)には野球の国際化を目指しメジャーリーグから審判員を招いて審判技術の向上を図ったが、それまでは非常にオーナー寄りであると批判され、交流戦の実施(2005年ようやく実現)を求めるパ・リーグ各球団やファンの声に対して耳を貸さず、既得権益を守るセ・リーグ各球団の利益保全に走ったと批判する声が今なおある。
また、渡邉恒雄・読売新聞社社長との蜜月の関係を指摘する声もある。従来コミッショナーは学識経験者や官界から推薦されて就任するものであるが、川島の場合は渡邊の強い推薦があり、前例のないリーグ会長からの横滑りでのコミッショナー就任となった。また、コミッショナー勇退の記者会見も、新旧コミッショナーと渡邊・読売ジャイアンツオーナーの三者がひな壇に並ぶという異様な光景であった。
コミッショナー時代の川島の功績についてもまた論が分かれる。相変わらず交流戦の実施には背を向け、また一部ファンが池永正明の復権を求める署名を提出した際には「歴史を覆すことはできない」とコメントして一蹴している(その一方で次期コミッショナーは就任1年で池永の復権を認めている)。その一方で、野球の国際化のために2000年には一部ながらシドニーオリンピック野球日本代表にプロ選手を派遣した。
また、長い間放置されていたアマチュア球界との関係修復に力を注ぎ、社会人野球との間では1999年から一部条件つきながら元プロ選手が社会人野球チームに入団できるようにするほか、高校球界との間では2004年に「新人選手選択に関する覚書」を調印し、プロ野球選手の母校での練習や、プロ野球選手による高校生を対象とするシンポジウム(「夢の向こうへ」)を実現させている。
これらの功績が称えられ、2006年1月10日に特別表彰で野球殿堂入りが決まった。
もっとも、コミッショナー職を根來に譲ってから間もなく近鉄とオリックスの合併に端を発する大問題が発生しており、辞任のタイミングに恵まれたとする者もある。