平教経
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平教経(たいら の のりつね、永暦元年(1160年)~元暦2年3月24日(1185年4月25日)は、平安時代末期の武将。
平教盛の次男。母は藤原資憲娘。本名は国盛。従五位下・能登守。
『平家物語』によると、平家随一の猛将として名高く、数々の合戦において武勲を上げたとされる。水島の戦いで源義仲の代官足利義清を破り、中国・四国における平氏勢力をまとめた。屋島の戦いでは矢戦で大活躍し、義経四天王の一人である佐藤継信を討ち取った。また、壇ノ浦の戦いでは源義経に八艘跳びをさせるほどに追い詰めたという。その最期は、源氏方の猛者を両脇に抱え込み、海中に身を投じたという風に壮絶に描かれている。
『吾妻鏡』では、元暦元年(1184年)の一ノ谷の戦いで安田義定の軍に討たれたとある。が、玉葉には教経生存の風聞がある事を示す記述があり、醍醐雑事記などは壇ノ浦の戦いで自害したとしている。