平時家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
平 時家(たいら の ときいえ、?-建久4年5月10日(1199年6月5日))は、平安時代末期・鎌倉時代初期の武将・貴族。平時忠の次男。平家滅亡後に信時(のぶとき)と改名。平家一門でありながら、源頼朝に味方してその側近として仕えた。
仁安3年(1168年)に六位蔵人に任ぜられ、平家一門の栄華とともに出世を重ねる。安元2年(1176年)には右近衛権少将兼伯耆守に任ぜられ、翌年には従四位下に昇る。
ところが、治承3年(1179年)11月、突如上総国に流刑となる。表向きはこの年の後白河法皇幽閉に関連した反平家派公家の処罰(「治承3年のクーデター」)によるものであったが、既に処分がほぼ終わった段階での流刑であり、平清盛の妻の甥である時家がそのような行動に関与する理由もなかった。実は時家の継母である時忠の後室が時家と折合いが悪かったためにこの機に乗じて夫に讒言し、父・時忠や清盛もこれを信じたものであった。
上総に流された時家は地元の有力武士である上総広常に気に入られてその婿になった。後に源頼朝の挙兵によって上総は頼朝軍に占領され、広常もこれに従う。時家も広常の勧めに応じて寿永元年(1182年)に鎌倉に出仕して頼朝に仕えることになった。
平家一門とはいえ蹴鞠や管弦、礼儀にも通じていたことから、頼朝から気に入られ、また時家自身も先の一件から一族に恨みを抱いていたため、本来であれば敵である頼朝に忠節を尽くすことになった。
後に義父・上総広常は粛清され、平家も滅亡するが、頼朝からの信頼は変わらず、また頼朝の家臣団では最高位の位階を持つ人物として内外からの尊敬を集めた。鎌倉幕府初期の政治顧問の一人として活躍し、鎌倉で穏やかな晩年を過ごしたという。