平頼綱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
平頼綱(たいらのよりつな、? - 永仁元年4月22日(1293年5月29日)は、鎌倉時代の北条得宗家の被官(御内人)で、鎌倉幕府8代執権北条時宗・9代執権北条貞時の執事である。平盛綱の子。北条貞時の乳母父。通称、平左衛門尉(へいざえもんのじょう)。法名は杲円(こうえん)。
頼綱の家系は平資盛を祖とするというが、疑問視されており、恐らく平姓関氏の流れであろうと考えられている。
得宗家の執事は内管領とも呼ばれるが、これは「得宗の家政を司る長」の意味であり、幕府の役職名ではない。
父の盛綱が長崎平左衛門尉盛綱と長崎氏を称したことが近世の史料にあるが、同時代の史料にはそのような記述はない。ただし、盛綱・頼綱父子は、後に内管領となった長崎高綱(円喜)・高資父子とは同族である。 頼綱には、嫡子長崎宗綱(長崎平太郎左衛門尉宗綱)、次男飯沼為綱(飯沼安房判官為綱、飯沼助宗)、三男長崎頼基(長崎三郎左衛門頼基)、四男長崎高頼(長崎四郎高頼)の4人の子がいる。
幕府御家人で弘安徳政を推進していた安達泰盛と、御内人の利益を重んじ、御内人の中心に位置する得宗の権力強化を目指す頼綱は激しく対立していた。1284年(弘安7年)4月、執権北条時宗が没すると対立は更に激化し、1285年(弘安8年)11月、ついに鎌倉市街で武力衝突にいたる。これを霜月騒動と言う。執権貞時を奉じる頼綱はこの戦いに勝利して、泰盛一族と与同勢力は滅亡し、少弐景資ら泰盛の政治グループは一掃された。
この後頼綱は弘安徳政を廃棄して恐怖政治を敷くようになるが、これは幕府内部に不満を呼び起こすとともに貞時にも不安視され、ついに1293年(永仁元年)4月、貞時の命によって頼綱一族は抹殺された。これを平禅門の乱(へいぜんもんのらん)という。
晩年は次子為綱(助宗)が、得宗被官としては異例の検非違使、更に安房守となっており、頼綱は自家の家格の上昇に腐心していたようである。
頼綱滅亡後、頼綱の叔父長崎光盛(長崎次郎左衛門尉光盛)の子の長崎光綱(長崎太郎左衛門尉光綱)が惣領となり、得宗家執事となっている。光綱は頼綱の弟あるいは甥とも伝えられる。権勢を誇ったことで知られる長崎高綱(法名・円喜)は光綱の子である。
平頼綱という呼称について
鎌倉時代には、姓ではなく苗字が一般化していた。頼綱の一族は長崎氏だが、頼綱については長崎氏を称した史料はない。かといって長崎とは別の苗字を名乗ったという記録もない。そこで便宜上、姓である平を使って平頼綱と記すことが慣例となっている(「吾妻鏡」に「平左衛門尉頼綱」あることから、少なくとも当時、頼綱が平姓であると考えられていたことは確実である)。