安達泰盛
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安達 泰盛(あだち やすもり、寛喜3年(1231年) - 弘安8年11月17日(1285年12月14日))は鎌倉時代の幕府の御家人である。安達義景の3男、母は小笠原氏の娘。兄弟に安達顕盛ほか。室は北条重時の娘。子に安達宗景、安達盛宗ほか。城九郎、正式な名のりは藤原泰盛(ふじわら・の・やすもり)。法名は覚真。
5代将軍九条頼嗣に仕え、5代執権北条時頼の縁者に当たることから時頼に重用される。1252年(建長5年)に父の義景が死去したため家督を相続し、秋田城介や評定衆、陸奥守などの要職を歴任した。さらに娘(一説には妹)・堀内殿(覚山尼)を時頼の子で後に8代執権に就任する北条時宗に嫁がせて北条氏との関係を深め、北条実時とともに越訴奉行となり、幕府内に影響力を持った。1281年(弘安4年)の弘安の役では恩賞奉行を務める。
1284年(弘安7年)に時宗が没し北条貞時が9代執権に就任すると、泰盛は幕政を主導する立場となり、元寇後の恩賞請求や訴訟が殺到するなか、弘安徳政と呼ばれる改革を行う。改革では御家人を保護して御内人を抑制する事、伊勢神宮や宇佐神宮と言った有力寺社領の回復に務める事、朝廷の徳政推進の支援などが行われた。これによって伝統的な秩序を回復させて社会不安の沈静化に務めるとともに、幕府の影響力を寺社・朝廷にまで広げて幕府主導による政治運営の強化を行おうとしたと考えられている。だが、御内人の抑制ではその代表である内管領の平頼綱と対立し、性急な寺社領保護によって寺社への還付を命じられた一部御家人や公家(朝廷)の反感を招き、泰盛は次第に政治的に孤立していく事になる。同年、出家。翌1285年(弘安8年)、頼綱は貞時に泰盛の子の安達宗景が源姓を称した事をもって将軍になる野心ありと讒言し、覚真は貞時により討伐され殺される、享年55。霜月騒動と呼ばれる泰盛派の排斥で、一族や泰盛派の御家人の多くが殺害される。
肥後国の御家人竹崎季長が恩賞奉行であった泰盛に直訴し、甘縄の邸で恩賞を与えられた話も知られ、季長が描かせた『蒙古襲来絵詞』にも泰盛の姿が描かれている。吉田兼好の随筆集『徒然草』にも 泰盛に関するエピソードが記されている。また、後嵯峨院から漢籍を下賜されるなど親交が厚く、院の崩御の翌年である1273年(文永10年)に高野山奥院に院を追悼する石碑を建立している。また、その関係で院の後継者である亀山上皇とも親しく、上皇が進めた朝廷内改革と泰盛の「弘安徳政」の連動性の存在が指摘されている。