敦明親王
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敦明親王(あつあきらしんのう、正暦5年(994年) - 永承6年1月8日(1051年2月21日))は、第67代三条天皇の第一皇子、母は藤原済時の女・皇后藤原[女成]子。
父の三条天皇は、藤原道長の圧力により、道長の孫にあたる一条天皇の第二皇子敦成親王(後一条天皇)を皇太子とし、敦明親王は後一条天皇の皇太子となった。しかし、三条天皇が崩御すると、道長はまたもや敦明親王に圧力をかけていた。一方の親王側も14歳も年下の天皇の皇太子では次期天皇としての即位の可能性は低いと考え、自ら皇太子廃位を願い出た。これにより、道長の計らいで小一条院太上天皇の尊号が贈られ、いわゆる准太上天皇としての処遇を得る一方で、道長の娘寛子(母・源明子)を妃に迎える。しかし、これによって親王に捨てられる形となった正室藤原延子は悲しみの余りに急死、続いてその父親の左大臣藤原顕光(関白藤原兼通の長男)も失意のうちに病死した。顕光父娘はその後怨霊になって道長一族に祟ったとされ、人々は顕光を悪霊左府(左大臣)と呼んで恐れたと伝えられている。
目次 |
[編集] 系図
─(60)醍醐天皇┬(61)朱雀天皇 ├(62)村上天皇┬広平親王 │ ├(63)冷泉天皇┬(65)花山天皇 │ ├致平親王 └(67)三条天皇┬敦明親王(小一条院) │ ├為平親王 └禎子内親王(後三条帝母、陽明門院) │ ├(64)円融天皇─(66)一条天皇┬(68)後一条天皇 │ ├昭平親王 └(69)後朱雀天皇┬(70)後冷泉天皇 │ └具平親王─(源)師房〔村上源氏へ〕 └(71)後三条天皇─→ ├兼明親王(前中書王) └(源)高明
[編集] 妃
- 985?~1019 藤原延子(堀河女御) - 藤原顕光女
- 999~1025 藤原寛子(高松殿女御) - 藤原道長女
- 1011?~1062 藤原頼宗女
- ?~1089 源政隆女(瑠璃女御)
[編集] 子女
- 1014~1061 敦貞親王
- 1015~? 栄子内親王
- 敦昌親王
- 1018~1097 かん子内親王 - 藤原信家室
- 1023~1032 敦元親王
- 1026~1064 源基平
- 1039~1077 敦賢親王
- ?~1074 源信宗
- 斉子内親王 - 斎院
[編集] 関連項目
カテゴリ: 平安・鎌倉時代の皇族 | 994年生 | 1051年没