藤原顕光
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藤原 顕光(ふじわら の あきみつ、天慶7年(944年) - 治安元年5月25日(1021年7月7日))は、平安時代中期の公家。父は藤原兼通。母は元平親王の女。兄弟に朝光、媓子らがある。堀河左大臣・悪霊左大臣とも称される。
961年(応和元年)従五位下に叙せられ、975年(天延3年)参議となり、以後昇進を重ね996年(長徳2年)右大臣、1017年(寛仁元年)左大臣にいたる。儀式の遂行に失態が多く、至愚と嘲笑された。娘の元子が一条天皇の女御となったが皇子がなく、また三条天皇(一条天皇の従兄弟)の皇子で延子の嫁した敦明親王は皇太子を辞退したため天皇の外戚としての実権を持つことができなかった。更に小一条院と称した敦明親王が権力者藤原道長の娘を娶った事を苦にして延子が病死、これを恨んだ顕光はその死後に道長一門に祟ったために、人々は彼を「悪霊左大臣」と呼んで恐れたと言われている。