旅順攻囲戦
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旅順攻囲戦(りょじゅんこういせん, 英:Siege of Port Arthur)は、日露戦争中の1904年に、日本と帝政ロシアとの間で行われた、旅順要塞を巡る一連の戦闘である。
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[編集] 背景
日露戦争の戦略上、最大の焦点となっていたのが旅順を母港としていたロシア旅順艦隊(第一太平洋艦隊)の動向であった。
日本が戦争に勝利するためには、本土と朝鮮半島との間の制海権を抑えることは必須案件であった。もし、バルチック艦隊(第二・第三太平洋艦隊)が極東に回航して旅順艦隊と合流すれば、日本海軍よりも圧倒的に大きい戦力でもって制海権はロシアに奪われ、日本と朝鮮半島間の補給路は絶たれ、満州での戦争継続が絶望的になることは明らかであった。そのため日本軍は、開戦前から練られていた基本戦略において、バルチック艦隊が極東に到着する前に旅順艦隊を誘い出し、決戦によって殲滅する必要があると想定していた。
開戦後、日本側からの何度にもわたる挑発にも乗らず、旅順艦隊は港を出ることなく、戦力は保全され続けた。日本海軍は旅順港の封鎖を狙って、2月から5月にかけて16隻の船を旅順港入り口で自沈させたが、悪天候と陸上からの砲撃のために上手くはいかなかった(旅順港閉塞作戦)。これを受けて、海軍は陸軍に対して、旅順要塞を攻撃し、艦隊を旅順港より追い出すか砲撃によって壊滅させるよう要請する。
ロシアは、1898年の遼東半島租借以降、旅順艦隊を守るため、旅順港を囲む山々に本格的な永久要塞を建設していた。日本陸軍は、旅順要塞は包囲するだけで充分であると考えていたが、日本海軍からの要請に基づき、もともと満州の平野での決戦を想定して編成していた第三軍に旅順攻略を命じた。第三軍は、第一師団(東京)、第九師団(金沢)、第十一師団(善通寺)の3個師団を持って編成。指揮官には日清戦争で旅順攻略の実績があった乃木希典大将を、参謀長には砲術の専門家とされた伊地知幸介少将を任命した。
第三軍は6月6日に大連へ上陸。旅順半島に侵入した第三軍が対峙したのは、日清戦争時からは想像もつかない敵だった。要塞構築に長けるロシア軍は旅順を守るべく近代要塞を築城しつつあったのである。
[編集] 戦闘の経過
[編集] 黄海海戦
第三軍は、7月に入り、ロシア軍の前進陣地の攻撃を開始。8月には死傷者1,000人以上を出したが、旅順要塞の包囲が完成した。海軍はこれを受けて黒井梯次郎海軍中佐率いる海軍陸戦重砲隊による旅順港の砲撃を開始。旅順要塞への攻撃が濃厚になった8月、ロシア旅順艦隊(第一太平洋艦隊)司令ウィトゲフトは砲撃による艦隊の損傷を避けるため、ウラジオストクへ回航しようと旅順港を出た。だが旅順艦隊は日本の連合艦隊と黄海海戦で交戦して損害を受け、回航を諦めて旅順港へ引き返した(ただし一部損傷艦船はドイツの租借地であった山東半島に逃げ込んだが、同盟国であったドイツはこれら艦船の武装解除を行なった)。こうして旅順艦隊はバルチック艦隊の到着まで旅順要塞による艦隊の保全を決めた。このため、日本軍の旅順攻撃はさらに不可避のものとなった。
[編集] 第一回総攻撃
8月19日、日本第三軍は、旅順要塞に10万発以上の前例の無い大砲撃を加えたのち、要塞東北部への歩兵による肉弾突撃を開始する(第一次旅順総攻撃)。しかし、砲撃が山砲・野砲などの小口径のものに限られたため、砲撃による要塞の破壊はほとんどなく、突撃する日本兵に容赦なく機関銃が浴びせられた。それでも8月24日には東鶏冠山第二保塁を確保。しかしロシア軍の反撃にあい撃退されてしまう。その後、一部の保塁を占拠するが、砲弾が尽き、死傷者の数が激増したため攻撃を中止する。この攻撃で日本軍は戦死者5,000、負傷者10,000という大損害を受けた。これはほぼ一個師団分の兵力である。
乃木らは、突撃による攻撃では要塞陥落はできないと判断。要塞前面ぎりぎりまで塹壕を掘り進んで進撃路を確保する戦法に切り替える(正攻法併用による攻撃計画の策定)。9月には第一師団が203高地への攻撃を行うが、占領に失敗する。
[編集] 第二回総攻撃
第一回総攻撃失敗後、大本営は、有坂砲で有名な有坂成章少佐の発案で、日本の主要な港に配備していた二八センチ榴弾砲(当時は二八サンチ砲と呼ばれた)を送り込む。通常はコンクリートで砲架(砲の台座のこと)を固定しているため移動が難しく、まして戦地に設置するのは困難とされていたが、工兵の努力によって克服している。10月26日、二八センチ砲も参加し、第二回旅順総攻撃を開始。その前に旅順港の一部が見渡せる観測点を確保していたので(南山披山の占領)、旅順港に対する砲撃も行い旅順艦隊に損害を与える。しかし、要塞の主要な防衛線を突破するには至らず、要塞攻略は失敗。戦死者1,000を数えた。
[編集] 第三回総攻撃
10月バルチック艦隊がウラジオストックに向かったという報を受け、陸軍は海軍から矢のような催促を受けるようになる。窮した陸軍は内地に残っていた最後の現役兵師団の旭川の精鋭師団(第七師団)を投入して第三軍に第三回旅順総攻撃を指令(11月26日)。11月28日、有志志願による白襷隊という突撃隊を作って、中村覚少将の指揮のもとに攻撃を行う。敵味方を識別するために隊員全員が白襷を着用し、決死の突入を試みるが、要塞を突破できなかった。
11月29日、戦況の不振を懸念した満州軍総参謀長兒玉源太郎大将が旅順方面へ南下する。同方面に向かう途上、203高地陥落の報を受けたが、後にロシア軍に奪還されてしまう。このとき、ロシア軍と日本軍はこの狭い高地を巡って7度も奪ったり奪い返されたりの戦闘を繰り返した。ロシア軍に奪還されたことを知るや兒玉は大山に電報を打ち、北方の沙河戦線より一個連隊を南下させるように要請する。兒玉の到着後、第三軍は目標を要塞正面突破から203高地確保に絞り込んだ。このため、日本軍は12月1日から3日間、ロシア軍に休戦を申し込み、この間にいくつかの大砲の陣地変換を行なった。
休戦後の12月4日早朝から203高地に猛撃を加え、203高地の2つある頂上の東北角、西南角を1時間半ほどで占領、そして山頂に機関銃を配備してロシア軍の逆襲を撃退し、第三回攻撃は成功裏に終了した。戦死者は約5,500。すぐさま203高地に砲弾観測所を設置し、後方の二八センチ砲による旅順艦隊への砲撃が開始される。8日、旅順艦隊は全滅した。ロシア太平洋艦隊の全滅とともに兒玉は煙台(奉天南方の地方都市)にある満州軍司令部へと戻っていった。
なお、この総攻撃に際し、兒玉は大山巌元帥の秘密命令書により乃木から第三軍の指揮権を委譲させ、自ら作戦を指揮したとの説が小説などにより一般に流布されているが、確証は無い。
[編集] ロシア軍の降伏
12月15日には、人望の高かったロシア軍のロマン・コンドラチェンコ少将が戦死。203高地失陥に続いてロシア軍の士気は落ち込んだ。
12月31日、第四回の総攻撃が開始される。トンネル攻法による要塞壁の爆破に成功。一気に要塞中心部の望台を占拠。
翌1905年1月1日、ロシア軍が降伏。1月5日、旅順要塞司令官アナトーリイ・ステッセリと乃木は旅順近郊の水師営で会見し、互いの武勇や防備を称えあい、ステッセリは乃木の2人の息子の戦死を悼んだ。この様子は「水師営の会見」として広く歌われた。
[編集] 評価
乃木希典も参考のこと
203高地攻略を優先しなかった乃木希典司令官・伊地知幸介参謀長の無為無策が原因であるとされるのは、司馬遼太郎の『坂の上の雲』で流布されたところが大きい。しかし、旅順での膨大な戦死者は、要塞構築に長じるロシアが旅順要塞を本格的な永久要塞化しつつあった(実際はそれでもまだ完成してはいなかった)事、慢性的な火力欠如(特に砲弾不足)と要塞攻略経験の欠如、この時代の技術水準では世界的に顕著だった防御側有利の戦理、そして明確な作戦指示を与えられなかったにも関わらず部分的な作戦への容喙を繰り返した大本営ならびに満州軍の指導力不足にあるという意見がある。
また、兒玉源太郎満州軍総参謀長の功績が語られることが多いが、日本軍が203高地を奪取したのは兒玉が第三軍の指揮権を握ってからわずか4日後で、この時既に数次に渡る第三軍の執拗な攻撃で203高地のロシア軍は疲弊しきっていたというから、兒玉のみの功績とは言い切れない。
要塞攻略に必要な坑道戦の教範の欠如に関しては、上原勇作少将が戦前工兵監として整備しようとしてできなかったため、この戦いの苦戦があると思われ、上原少将はこの反省から明治39年坑道教範を作成し、小倉に駐屯していた工兵隊にてはじめての坑道戦が敵味方に分かれて実施されている。
実用性の高い機関銃であるマキシム機関銃は、この戦闘で世界で初めて本格的に使用され威力を発揮した。機関銃の威力の前に歩兵の正面突撃は無力であり膨大な屍を築くだけである事が証明されたのである。この状況を打開する攻撃法はすぐには見出せず、それがこの戦闘における試行錯誤となって現れたと言える。
当時の日露両軍は世界的に見ても例外的に機関銃を大量配備していた。同時代のヨーロッパ各国はごく少数配備していただけで運用法も確立されていなかった。この戦闘における機関銃の威力は各国観戦武官によって本国に報告されたが、辺境の特殊事例としてほとんど黙殺された。ヨーロッパ各国がこの事実に気づくのは第一次世界大戦が開始されてからの事となる。
[編集] 逸話
ロシア軍の敗因としては、旅順要塞内の備蓄食料に大豆などの穀物類が多く野菜類が少なかったため、ビタミン不足が原因の壊血病による戦意喪失が一因として挙げられている。なお、大豆を発芽させればビタミンが豊富なもやしができるが、ロシアにはもやしを作って食べる習慣が無い。ロシア軍に一人でも栄養学の知識が豊富な人物がいれば、大豆を水に漬けて発芽させたもやしを食べることにより、兵士はさらに健闘しただろうといわれている。
さらにこの戦いで初めて焼夷弾が戦闘に使われた。この焼夷弾はロシア海軍の大尉が発明したものである。後の太平洋戦争(大東亜戦争)などで広く使用されるが、これがロシア海軍の軍人が発明したものであるということはあまり知られていない。[要出典]
[編集] 参考文献
- 司馬遼太郎『坂の上の雲』全8巻(文春文庫、1999年)
- 児島襄『日露戦争』全8巻(文春文庫、1994年)
- 別宮暖朗『「坂の上の雲」では分からない旅順攻防戦―乃木司令部は無能ではなかった』(2004年) ISBN 4890631690
- ジョン・エリス『機関銃の社会史』(平凡社、1993年)
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