村田康一
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村田康一(むらた こういち 1936年11月27日 - )とは、福岡県出身。昭和中期から平成期(1960年代後半-1990年代前半)のプロ野球審判員。元審判部長。現在はマスターズリーグで審判をつとめる。
[編集] 来歴・人物
小倉西高校卒業後、1955年に近鉄パールスに捕手として入団。選手としての通算成績は、224試合に出場して78安打、7本塁打、26打点、打率.178。現役引退後、近鉄の二軍マネジャーを経て1967年、パシフィック・リーグ審判部入局。審判員袖番号は28(1977年初採用から1996年引退まで、彼以降に同番号をつけた審判はパ・リーグにはいない)。1990年、1991年は審判部長。部長の座を寺本勇に禅譲した後も現役を続け、1996年引退。審判としての通算試合出場数は2667、オールスター5回、日本シリーズ5回出場。
「ライオン審判」の異名を取り、背は高くないが恰幅のよい体型と、判定でもめそうになった時にこれでもかとコールを連呼する迫力満点のジャッジで選手に有無を言わせないことで有名であった。技術的には優れているが権威の低い現在の日本プロ野球審判員達に一番必要なのは、彼のような毅然とした態度なのかも知れない。
また、インサイドプロテクターを比較的早い時期から採用しており、その体型からよく似合っていた。球審の際はニースタンスで、身体を極めて低く構えていた。ストライクコールの「二丁拳銃」は有名である。
審判員になった年齢が遅いため、通算出場数は飛びぬけて多くないが、強烈に人々の記憶に残る名物審判員であった。
[編集] 「石コロ事件」
1982年10月28日、日本シリーズ西武対中日第5戦(西武球場)、0-0のまま3回表中日の攻撃で、二死ながら二塁走者に田尾安志を置いて、右打席に平野謙が立った。
平野の打球は西武の一塁手・田淵幸一の右を痛烈に抜いたが、その打球が一塁塁審の村田の足を直撃した。その打球が西武の二塁手・山崎裕之の目の前に転がり、三塁ベースを回っていた田尾がアクシデントに気づいてあわてて三塁に戻ったが、田尾はあえなくタッチアウト、中日は先制のチャンスをつぶした。
このプレイで中日の勢いは萎み、その試合は3-1で西武の勝利、シリーズの通算成績も中日の2勝3敗となった(結局西武は第6戦に勝ち、西武ライオンズとして初の日本一に輝いた)。
試合終了後、報道陣から「あのプレーに関してはどういう心境か」と問われ「石コロ!」と吐き捨てた。(野球規則によると、野手を通過したボールに審判が当たった時は「ボールインプレー」、すなわち石コロと同じ扱いとなる)。
ちなみに、同シリーズ第6戦においても、中日・平野が二塁盗塁した際に西武の二塁手・山崎裕之が落球しているのが見えず、二塁塁審の村田はアウトのコールをしてしまった。この時は抗議により判定が覆っている。
村田はこの事件によって、その後数年は日本シリーズの審判から外されてしまう。日本シリーズの舞台に復帰したのは、1986年である。