東八郎
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東 八郎(あずま はちろう、1936年5月31日 - 1988年7月6日、本名:飛田 義一(ひだ ぎいち) )は昭和後期(1960年代後半-1980年代)のコメディアン、タレント。東京都台東区浅草の出身。昭和時代を代表するコメディアンであると同時に、お笑いコンビTake2の東貴博、タレント東朋宏の父。貴博・朋宏を含め5人の子供を持ち、家族を大切にすることでも有名で温厚な人柄だったという。
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[編集] 来歴・人物
中学卒業後、コメディアンを志し、歌手・田谷力三に弟子入り。浅草公園六区の浅草フランス座等で活躍(この頃のフランス座には、関敬六、長門勇、渥美清など後に有名になったコメディアン達が出演していた)。しかし、テレビの台頭と共に、浅草の演劇街が衰退してきたため、小島三児、原田健二と共にトリオ・スカイラインを結成し、テレビに進出。コントを行い、人気を博した。トリオ・スカイラインは、1971年に解散し、以降は単独で芸能活動を行う。三波伸介とともに、NHK「お笑いオンステージ」にレギュラー出演。全国区のコメディアンとなった。その後。東八郎劇団を結成し、後進の育成にも力を注ぎ、全国各地で喜劇を演じていた。晩年では、志村けん主演の「バカ殿様」の家老役や、おでこに「光」のシールを貼りBGMにメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲が流れる「ヨード卵光」のコマーシャルが有名であった。なお、萩本欽一は一番弟子である。
人気コメディアンとしてテレビや舞台を数多くこなし、「娘へのバラード」(1981年)などの歌も披露していた。「娘へのバラード」は結婚披露宴で歌われる定番曲のひとつとして広く知られている。
1988年に芸能人養成のために私塾を開いたが、同年7月6日に脳溢血で急逝。52歳の若さであった。
現在のお笑い界の大物である志村けんは、子供からバカにされることに内心憤慨していた時期があったらしい。志村はバカ殿シリーズで共演していた東に「東さんはその歳になっても、なぜバカな演技ができるのですか?」と聞いたことがあるという。東は「子供にバカにされるのは芸人として当然のことで怒っても仕方がない。分かる人は演者がバカではないとちゃんと分かってくれている。むしろ芸人が利口面をしたがったり、文化人ぶったりするようになったらおしまい」と諭し、志村を大いに感激させたという。志村はことあるごとにこのエピソードを披露し、東に対する敬意を表していた。ただし、こういう話を外部にしてしまうこと自体が、東の真意に反していると見る向きもある。
東の死で私塾(塾生約30名)が解散となったとき、志村は「(当時の)自分には一人だけしか面倒みてやれる余裕がないが誰か生徒さんの面倒を見たい」と申し出た。そのとき志村の付き人に採用されたのがジョーダンズ・山崎まさやだった。
[編集] ギャグ
- 頑張れ、強いぞ、僕らのなまか~(赤胴鈴之助のテーマ曲の替え歌で、『仲間』が訛って『なまか』となった)
[編集] テレビ番組
- 「お笑いオンステージ」
- 「オールスター家族対抗歌合戦」
- 「志村けんのバカ殿様」
- 「お笑いスター誕生」