松原忠司
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
松原 忠司(まつばら ちゅうじ、 天保五年(1835年)?- 慶応元年9月1日(1865年10月20日))は新選組において副長助勤(四番隊組長)と柔術師範を務めた播磨出身の浪士(永倉新八によれば大坂浪人)。後述のようにその死については諸説ある。
目次 |
[編集] 略歴
- 播州小野藩士の子として生まれる。
- 安政年間に脱藩。
- 大坂にて関口流柔術の道場をひらいていたといわれる。
- 文久三年五月には新撰組の前身である壬生浪士組に入隊している。
- 文久三年、八月十八日の政変では坊主頭に白鉢巻、脇には大薙刀を備え弁慶さながらの格好で仙洞御所前および禁裏御所南門の警備にあたり、「今弁慶」の異名をとる。
- 元治元年の池田屋事件では土方隊に属し、当夜の戦功により報奨金15両を賜る。
- 慶応元年四月の組織再編で四番隊組長・柔術師範となる。
- 慶応元年、死去。その死については諸説ある。
[編集] 風体・人柄
坊主頭で色白の巨漢。温厚な人柄で知られ、「親切者は山南(山南敬助)と松原」といわれたという。山南が自分の鎧がないことに腹を立て、それをなだめた逸話が残る。
[編集] 『今弁慶』の異名
松原は、八月十八日の政変の出動の際、丸坊主に白鉢巻、大薙刀を携え、さらに巨漢であった。その異様な出で立ちから、『今弁慶』の異名を取ったと言われる。
[編集] 松原の死
松原の死については病死と心中という二つの説がある(新選組の記録には「病死」とある)。 何らかの理由で切腹したが未遂に終わり、その後平隊士に降格されたという点は多くの話で共通する。 しかし心中説は子母沢寛(あるいは八木為三郎)が「新選組物語」にて「壬生心中」として創作したのではないかといわれる。
- 病死説
- 何らかの失策により切腹を図るも制止され、その傷がもとで病死した。
- 心中説
[編集] 「壬生心中」について
松原の死に関しては、新選組が屯所を構えていた八木家の八木為三郎が篠原泰之進や斎藤一から聞いた松原忠司の話を子母沢寛が再構成した「壬生心中」がある。しかし、子母沢寛の作品や八木為三郎の語る話には脚色や創作がしばしば見られるため、この話も事実であるかどうかには疑いがある。
[編集] その他
墓は光縁寺にある。