水野忠央
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水野 忠央(みずの ただなか、文化11年10月1日(1814年11月12日) - 慶応元年2月25日(1865年3月22日))は、紀伊国新宮藩の第9代当主(幕藩体制下では藩主として認められておらず、紀伊藩の付家老だった)。父は第8代当主・水野忠啓。官位は従五位下。土佐守。号は丹鶴。鶴峯。
文化11年10月1日生まれ。幼名は健吉。藤四郎。天保6年(1835年)、家督を継いで当主となり、本家の紀伊藩の藩主たちを補佐した。嘉永2年(1849年)、徳川斉彊が死去してわずか4歳の幼児・徳川慶福が藩主になると、忠央はこれを補佐することとなった。この頃、紀伊藩では第10代藩主だった徳川治宝が隠居中ながらまだ存命していたため、実権は治宝が掌握していたのだが、治宝が嘉永5年(1852年)に死去すると、忠央は藩の主導権を掌握して専制的な政治を行なったため、周囲からの批判を浴びたと言われている。どうもこれには、忠央が幕政に参与し、3万5000石という石高を領していながら水野氏が大名として認められていなかったため、水野氏を大名に昇格させようという野望があったためと言われている。
さて、時の第13代将軍・徳川家定は病弱な上、嗣子が無かった。このため、次の将軍位をめぐって徳川斉昭の子・徳川慶喜の一橋派と、慶福を擁立する南紀派に分かれて、それぞれが対立することとなった。忠央は井伊直弼と手を結んで慶福を推し、安政4年(1857年)に幕府で隠然たる勢力を持っていた阿部正弘が死去すると、大奥とも手を結んで正弘の死の翌年、慶福を徳川家茂として第14代将軍に擁立したのである。
しかし安政7年(1860年)3月3日、桜田門外の変で井伊直弼が暗殺されると、一橋派や反井伊派が勢力を盛り返したため、直弼の与党であった忠央も同年6月、失脚した上、家督を嫡男の水野忠幹に譲って強制的に隠居することを命じられた。そして以後は政界に二度と復帰することなく(ただし、隠居謹慎処分は元治元年(1864年)に解かれた)、慶応元年(1865年)に52歳で死去したのであった。法号は鶴峯院殿前土州太守篤勤日精大居士。墓所は和歌山県新宮市の橋本山。
このように忠央は専制的な人物であったが、その反面で文化人としても優れ、歴史・文学・医学の多方面において当時のことにおいて編纂を命じ、「丹鶴文庫」という蔵書を作り上げている。なお、忠央の藩主家が大名に取り立てられるのは、彼の後を継いだ忠幹の時代における「維新立藩」のことであった。
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