治天の君
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治天の君(ちてんのきみ)は、日本の古代末期から中世において、天皇家の家督者として政務の実権を握った上皇又は天皇を指す用語。事実上の国王として君臨した。治天下(ちてんか)、治天(ちてん)、政務(せいむ)と呼ばれることもある。(以下、本項では「治天」という。)
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[編集] 成立と意義
治天という地位は、平安時代後期の院政の開始により登場した。それまでは、藤原北家が摂政・関白(天皇の代行者・補佐者)として政治実権を持つ摂関政治が行われていた。あくまで律令官制の最高位に君臨するのは天皇であり、その天皇を代行・補佐することが、摂関の権力の源泉となっていた。しかし、白河上皇に始まる院政では、上皇が子へ譲位した後も、直接的な父権に基づき政治の実権を握るようになったため、摂関政治はその存立根拠を失った。この変遷は、天皇の母系にあたる摂関家が、天皇の父系にあたる上皇に、権力を奪われたものとみることができる。
平安中期から後期頃から、特定の官職を一つの家系で担うことが貴族社会の中で徐々に一般化しつつあった。官職に就くことは、その官職に付随する収益権を得ることも意味しており、官職に就いた家系の長(家督者)は、収益を一族へ配分する権限・義務を持った。このような社会的な風潮が天皇家へも影響し、天皇家の家督者となった者が、本来の天皇の権限を執行するようになったのだろうと考えられている。
この天皇家の家督者が、実質的な国王であり、治天と呼ばれるようになった。複数の上皇が併存することもあったが、治天となりうるのは1人のみであり、治天の地位を巡って上皇・天皇同士の闘争さえ発生した(保元の乱)。治天となりうる資格要件は大きく2つある。まず、天皇位を経験していること。次に、現天皇の直系尊属であること。このことを逆に見れば、天皇位は治天となるための見習い期間に過ぎないと言える。また、治天になれなければ、自らの子孫へ皇位継承できないことも意味しており、治天の座を獲得することは死活問題であった。
[編集] 略史
[編集] 平安後期
1086年(応徳3年)に白河天皇が実子の堀河天皇へ譲位し、院政を開始した時が、治天の成立だと考えられている。堀河は皇位にありながら、政治の実務は白河が行っていた。堀河が没してその子鳥羽天皇が即位しても白河が政務を担った。白河が没すると、崇徳天皇に譲位し既に上皇となっていた鳥羽が治天となり、院政を開始した。白河も鳥羽も積極的な政策展開を行い、専制的な院政の典型とも、院政の最盛期とも評されている。
1156年(保元元年)、鳥羽が没すると、崇徳上皇と後白河天皇の兄弟が治天の座を巡って争い、後白河が勝利した(保元の乱)。後白河は2年後の1158年に退位すると院政を開始し、途中、平清盛による院政停止や高倉院政などがあったものの、1192年(建久3年)に没するまで治天の地位にあった。
さて、白河院政の後期以降、院への荘園寄進が非常に集中するようになり、天皇家は莫大な経済基盤を得ることとなった。これらの荘園はいくつかのグループに分けられ、別々に相続されていった。例としては、鳥羽が娘の八条院に相続した荘園群である八条院領、後白河が長講堂という寺院に寄進した長講堂領などがある。治天は天皇家の家督者として、これらの厖大な荘園群を総括する権限を有していた。
[編集] 鎌倉期
後白河の次に治天となったのは、その孫の後鳥羽天皇だった。1180年代の治承・寿永の乱の結果、東国に鎌倉幕府が成立し、独自の支配権を獲得していたが、治天として専制を指向する後鳥羽には、幕府の存在が我慢ならないものだった。1221年(承久3年)、まだ誕生して間もなく、源実朝暗殺により将軍不在となった幕府の体制を不安定と見た後鳥羽は、幕府の武力排除を試みたが、幕府軍に敗北してしまった(承久の乱)。これにより、後鳥羽及びその直系の上皇・天皇は追放され、後堀河天皇が即位した。後堀河の父守貞親王が天皇家の家督者として、治天に就任することとなったが、守貞親王は天皇位に就いたことがなく、治天の資格要件を欠いていた。しかし、緊急事態であることが考慮され、特別に治天となり、後高倉院(天皇の例に倣い没後に院号を贈られた)として院政を布いた。これは、既に治天の存在が不可欠になっていたことを表している。
承久の乱以降、治天がそれ以前と同等の権力を有することはなく、重要事項は幕府と協議した上で決定することが常態化した。13世紀中期には、次代の治天の座を巡って後深草天皇の系統(持明院統)と亀山天皇の系統(大覚寺統)が対立したが、治天である後嵯峨上皇は亀山系による皇位継承を遺言して没し、後深草系はこれに反発して幕府に力添えを頼んだ。最終的には幕府が仲介に入って双方が交互に治天の地位に就く両統迭立が行われるようになった。本来なら治天が次代の治天を指名するべきところ、その指名を幕府に委ねたという事実は、治天の権威が低下しただけでなく、治天の権限の一部を幕府が代行していたことも意味している。
1318年(文保2年)に即位した大覚寺統の後醍醐天皇は、上記の状況を大きく変革した。まず、父であり治天でもある後宇多上皇の院政を停止し自ら政務に当たる親政を始め、また、2度にわたって倒幕を企てたが、いずれも天皇位への権力集中(権力の一元化)を指向したものだと見られている。
[編集] 室町期
1333年(元弘3年)に始まる後醍醐の建武の新政は数年で失敗に至り、当時最大の実力者だった足利尊氏が幕府政権を樹立することとなった。その際、尊氏は、持明院統の光厳上皇を治天とし、その弟の光明天皇を即位させ、自らは征夷大将軍に就任する。後醍醐は治天の地位を否定したけれども、社会はそれを必要としていたことを表している。
1352年(正平7年/観応3年)、北朝・幕府と対立していた南朝は、観応の擾乱に乗じ、北朝側の治天・天皇・皇太子を拉致することに成功した。建前であっても、政治決定には治天の裁可を必要としていたため、幕府及び北朝側の公家は北朝の再開に取り組むこととなった。治天・天皇・皇太子の奪還は困難と見られたため、出家していた弥仁親王(光厳の子)を後光厳天皇とし、京都に残る天皇家の中で最高位者だった広義門院(西園寺寧子、後伏見の女御・光厳の生母)を治天とすることで対応した。女性で、しかも天皇家の出自でない者が治天となるのは前代未聞の事態だったが、これにより北朝は存続することができた。どのような形であれ、治天という存在が政治上、必要不可欠だったのである。
最後の治天と呼べるのは、後光厳の子の後円融上皇である。後円融は1393年(明徳4年)に没した。その後、院政を行った上皇はいるが、天皇家の家督者としての実権を有していたとは言えず、治天と呼ぶにはふさわしくないと考えられている。例えば、後円融の子後小松天皇は、1392年(元中9年/明徳3年)に南北朝合一を実現して後醍醐以来の唯一の天皇となり、皇子称光天皇に譲位して院政を行い、1428年(正長元年)に称光が没して皇統が絶えると、伏見宮家から後花園天皇を立てて院政を続けた。これらは、南北朝合一の約束であった両統迭立を死文化し、持明院統による皇位継承を既成事実化するための将軍足利義満の意向であった。なお、後円融の死後、足利義満が事実上の治天となっており、子の義嗣を天皇位に就けようと画策していたとする説もある。また、義満死後に生じた後花園天皇の擁立は、後小松上皇による治天としての行為であるとも考えられる。