活動写真
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活動写真(かつどうしゃしん)は明治・大正期における映画の呼称。元来は幻灯機の事を指す。後に意味が変じて、映画を指すようになった。自動幻画、活動大写真、自動写真という呼称もあった。映画という名称が広く使われるようになるのは昭和になってからである。
1896年(明治29)11月17日、神戸市の高橋新治が輸入したキネトスコープ(当時はニーテスコップと呼ばれた)の映像を、滞在中の小松宮彰仁親王に見せた事が、11月19日付の神戸又新日報の「ニーテスコップ(電氣作用寫眞活動機械)之儀 今般小松宮殿下御來港ニ際シ御照覧ニ奉供候」という記事になった。当初は活動写真ではなく、写真活動機と呼ばれたことが分かる。
同じ頃、フランスに渡っていた稲畑勝太郎は同窓生であったオーギュスト・リュミエールから2台のシネマトグラフを購入していた。又、この年、荒木和一がヴァイタスコープ(キネトスコープの改良型。スクリーン投射可能)を輸入し、その機械に「活動写真」と命名したと言われる。
明けて1897年(明治30年)2月15日には、フランスから帰国した稲畑勝太郎がシネマトグラフの映像を大阪市戎橋通りの南地演舞場で上映し、好評を博した。日本初の「映画興行」である。3月6日には、東京・神田錦輝館で「電気活動大写真会」と銘打ち、ヴァイタスコープによる興行も行われた。
日本で国産第一号の活動写真が公開されたのは、1899年(明治32)6月20日、東京歌舞伎座。「芸者の手踊り」という題の記録映画だった。 劇映画の第一号「稲妻強盗」は同年9月に製作された。日本の映画俳優第一号は、この作品に出演した横山運平だと言われている。