活版印刷
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活版印刷(かっぱんいんさつ)とは、活版(活字を組み合わせて作った版)で印刷すること。また、その印刷物。鉛版・線画凸版・樹脂版などの印刷も含めていう。活版刷りともいう。
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[編集] 歴史
活版印刷術が、いつ頃、どこで発明されたか、詳しいことは分かっていない。活字自体は、かなり早くから発明されていたようだが、活字を並べた組版による印刷では、11世紀、北宋の工人畢昇(ひっしょう)の名が知られる。これは 沈括(しんかつ)による「夢渓筆談」(むけいひつだん)に記されているもので、それによれば、彼は1041~1048年頃に、膠泥(こうでい)活字を用いて、これを行ったという。また、元代の人王禎(おうてい)の「農書」(1313年)には、木活字3万余字を作り、これらを彼の設計による回転活字台に韻によって並べたこと、それを用いて印刷したことが記されてる。以上のことから、活版印刷術は、どうやら中国において、最初に発明されたものらしい。
確かな記録が残るものでは、高麗の「詳定礼文(しょうていれいぶん)」が挙げられる。この書物の跋文には、同本を、1234~1241年頃に、鋳造による活字で28部印刷したことが記されている。現物は、残念ながら失われている。また、高麗開城の墓からは、この時代のものと考えられる銅活字が見つかっている。現存する最古の活字による印刷物は、高麗末の1377年頃、清州の興徳寺において印刷されたという「白雲和尚抄録仏祖直指心体要節(はくうんおしょうしょうろくぶっそじきししんたいようせつ)」である。これには、木活字と銅活字が用いられている。
西洋における活版印刷の技術は東洋より遅れて15世紀に入ってから実用化された。一般に、ドイツのグーテンベルクが「活版印刷の発明者」であるとされてきたが、グーテンベルクはすでにあった技術を集大成したというのが現在の定説になっている。他にもオランダ人ヤンソン・コスター(Laurens Janszoon Coster)が、1423年頃に印刷技術を実用化していたとするものなど諸説ある。しかし、少なくともグーテンベルクによって活版印刷術が広く知られるようになったことは間違いない。この技術はルネサンスの三大発明ともいわれるほど、社会に大きな影響を持つこととなった。かつては社会のごく一部の階層にしか書物が読まれることはなかったが、グーテンベルクの発明以降、(当初はまだ高価なものであったが)次第に書物は普及し、今日では、誰でも読むことができるようになった。(なお、15世紀に印刷された本を特にインキュナブラと呼んでいる)
日本では16世紀末のキリシタン版や江戸時代初期の嵯峨本など、例外的に活字を用いた印刷が行われたが、縦書きの崩し字を活版で印刷するのはかえって手間がかかるという事情があって普及せず、江戸時代にはもっぱら木版印刷(一枚の板で版を作るもの)が盛んになった。活版印刷が広く行われるようになるのは明治時代以降である。
[編集] 今日の活版印刷
活版の技術は、以降改良を加えられながらも5世紀にわたって印刷の中心に居つづけた。改良と言ってもそれらは活版印刷の原理に直接踏み込むものではなく、これは技術の歴史の中では稀有とも言える息の長さであった。だがしかし写真植字とDTP化はその命脈を途絶えさせる。デジタル製版が可能になり、現在の日本では活版印刷は絶滅に近い。名刺・はがき程度の印刷をやってくれる印刷業者はあるものの、本を一冊分、というような会社はほとんど無い。
活版印刷で書籍を組んで刷るということは、単に版面を構成する文字を並べるだけでも膨大な数の活字が必要になる。これはアルファベットでもそうであるし、日本語や中国語など字種の多い文字言語においてはより顕著である。また、行間や余白は写植・DTPに於いては文字通り「何もない空間」であるが、活版ではインテルやクワタなどの込め物によって詰められた、まさに「充満した空間」なのであって、それらがまた金属(あるいは木)であるゆえにその分の重量も半端なものではない。さらに大量印刷の為には原版刷りではなく、紙型を取って複製する設備なども必要であるなどの特徴がある。これは、印刷機そのものよりも手前の工程において、大量の資材と人手を要することを意味する。
こういった理由のため、大型設備を用いた活版印刷を「技術の保存」を目的として保っていくことは極めて困難であり、それがいわゆる伝統工芸化を阻んでいる。そういった中でも、活版印刷を辞める印刷会社から道具・機材を譲り受け、プライベートプレスを行っている、という人もいる。
[編集] 関連項目
- ヨハネス・グーテンベルク
- 活字 - 印刷
[編集] 外部リンク
- 嘉瑞工房 活版印刷を実際に受注している会社。詳細な解説も。