物部氏
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物部(もののべ)氏は河内国の哮峰(現・大阪府交野市)に天皇家よりも前に天孫降臨したとされるニギハヤヒミコトを祖先と伝えられる氏族。元々は兵器の管理を主に行なっていたが、自然と大伴氏とならぶ武器を扱う氏族へと成長していった。連の姓(かばね)、八色の姓の改革の時に朝臣姓を賜る。
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[編集] 坂東への進出
6世紀前期に布都久留 の子で木蓮子の弟の物部小事が坂東に進出したという説(伝承)がある。 常陸国信太郡や下総国匝瑳郡との関連を指摘する説があり、香取神宮と物部氏の関連も指摘されている。 なお、もうひとつの神宮である鹿島神宮と中臣鎌足との関連は一般に良く知られている通りである。
[編集] 磐井の乱
継体天皇の時代に北九州で起こった磐井の乱の鎮圧を命じられたのが物部氏だった。これを鎮圧した物部麁鹿火(あらかい、麁は、あら)は宣化天皇の元年の7月に死去している。
[編集] 蘇我氏との対立
宣化天皇の死後、安閑天皇になると物部尾輿(もののべのおこし、生没年不詳)が大連(おおむらじ)になった。
『日本書紀』によると、欽明天皇の時代百済から仏像が贈られた。これの扱いを巡り、蘇我稲目(大臣)を中心とする崇仏派と物部尾興、中臣鎌子を中心とする排仏派が争った。そして蘇我馬子、物部守屋(もののべのもりや)に代替わりした。
守屋は蘇我氏の寺を襲い、仏像は川に投げ入れ、寺は焼くということをしてしまった。そして3人の尼を鞭で打った。
しかし、それ以後疫病が流行し用明天皇が崩御した。これにより皇后や皇子を支持基盤にもつ蘇我氏が有利になり、また天皇が生前、「仏教を敬うように」といった詔があったこともあり、先代の敏達天皇の皇后(用明天皇の姉。後の推古天皇)の命により蘇我氏及び連合軍は物部守屋に攻め込んだ。
当初、物部守屋は有利であったが守屋は河内国渋川郡(現・大阪府東大阪市衣摺)の本拠地で戦死した。
[編集] 石上氏
西暦686年(朱鳥元年)までに物部氏から改めた石上氏(いそのかみし)が本宗家の地位を得た。同氏は守屋の弟の子孫であると言われている。
物部尾興の曾孫に当たる石上朝臣麻呂には朝臣の姓が与えられて、西暦708年(和銅元年)に左大臣。その死にあたっては廃朝の上、従一位を贈られた。息子の石上朝臣乙麻呂は孝謙天皇の時代に中納言、乙麻呂の息子の石上朝臣宅嗣は桓武天皇の時代に大納言にまで昇った。また宅嗣は、日本初の公開図書館・芸亭の創設者としても歴史に名を残している。 石上氏は宅嗣の死後、9世紀前半ころに衰退。
[編集] 地方の物部氏
中央の石上氏(いそのかみし)とは別に、古代東北地方を中心として物部氏を名乗る人物が地方官に任ぜられている記録がある。出羽物部氏は物部守屋の子孫と称し、扶桑略記、陸奥話記などに物部長頼が陸奥大目となったことが記載されている。しかし、出羽物部氏が本当に守屋の子孫かどうか確実な証拠はない。六国史に散見する俘囚への賜姓例の中には、吉弥候氏が物部斯波連を賜ったという記録もあることや、物部氏の部民も物部を称したとする見方もある。
古代尾張の東部に物部氏の集落があり、現在は物部神社と、武器庫であったと伝えられる高牟神社が残っている。
[編集] 系譜
麻呂より以前は、主として『先代旧事本紀』に拠る。太線は実子、養子は記載せず。
饒速日命 ┃ (6代略) ┃ 十千根(物部姓を負う) ┃ 胆咋 ┃ 五十琴 ┃ 伊莒弗 ┣━━━━━━━┓ 布都久留(懐) 目 ┃ ┃ 木蓮子 荒山 ┃ ┃ 麻佐良 尾輿 ┃ ┣━━━━┓ 麁鹿火 守屋 御狩 ┃ 目(?) ┃ 宇麻呂(馬古・宇麻乃) ┃ 麻呂(石上姓を賜う) ┃ 乙麻呂 ┃ 宅嗣