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艦歴 |
起工 |
1918年 8月29日 |
進水 |
1919年 7月14日 |
竣工 |
1920年 8月31日 |
喪失 |
1944年 1月11日 |
除籍 |
1944年 3月10日 |
性能諸元 |
基準排水量 |
5,100t |
公試排水量 |
5,500t |
全長 |
162.10m |
全幅 |
14.17m |
吃水 |
4.80m |
出力 |
90,000hp |
最大速力 |
36.0kt |
巡航速度 |
10kt |
航続距離 |
9000浬 |
乗員 |
447名 |
搭載機数 |
1機 |
兵装 |
|
球磨(くま)は、日本海軍の軽巡洋艦球磨型の1番艦。
[編集] 艦名の由来
艦名は熊本県を流れる球磨川にちなんで命名された。日本海軍の命名慣例については船名#日本艦船の命名慣例を参照の事。
[編集] 建造経緯
天龍型軽巡洋艦を完成させ、軽巡洋艦を運用し始めた日本海軍は本格的軽巡洋艦の建造に着手し始めた。付随艦である駆逐艦に合わせた速力とより大きな打撃力を求めた艦を目指し設計されたのが本艦である。なお、排水量の5,000tは当時、各国で軽巡洋艦の標準クラスとされた。
[編集] 履歴
- 1918年8月29日 球磨型1番艦として佐世保工廠で起工。
- 1919年7月14日 進水。
- 1920年8月31日 竣工。
- 1944年1月11日 午後11時57分に、マラッカ海峡付近で敵潜水艦タリー・ホーの魚雷2本を受け沈没。
[編集] 能力
- 主砲
- 14センチ単装砲を7門装備、3番・4番の砲が両舷に分かれて設置されている為、片舷への同時砲撃は6門。1~4番までの4門が前部に5~7番までの3門が後部に配置されている。
[編集] 太平洋戦争
水雷戦隊の旗艦を担う為に本艦は14隻の5500t級軽巡洋艦(球磨型5隻、長良型6隻、川内型3隻)の1番最初の艦として建造された。長門型戦艦でさえ竣工時は80000馬力だった中、完成当初90000馬力という大出力を活かして36ktという高速を誇り、14センチ砲を7門・53センチ魚雷連装発射を4基備えた当時としては強武装を誇ったが、建造からかなりの年数が経過していたこともあり、太平洋戦争には改装を経て参加。球磨型においては、本艦と僚艦の多摩のみが水上偵察機などの航空機を搭載した。しかし、太平洋戦争においては水雷戦隊による戦いはほとんど起こらず、航空優勢のうちに戦いは進められ、戦前に予想された艦隊決戦構想は裏切られる事となる。また、改装によって7000t近くまで排水量が増大したため速力が32kt前後まで低下したことや兵装の弱体化・新型駆逐艦の性能向上などによって本艦型は水雷戦隊を率いることなく、専ら北方防備や兵員輸送任務などに従事。1944年1月11日に英ツタンカーメン級潜水艦タリー・ホー(HMS Tally-ho,P-317)に撃沈されるまで球磨は精一杯の働きを見せた。
[編集] 同型艦
[編集] 関連項目