碓氷峠
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碓氷峠(うすいとうげ)は、群馬県安中市松井田町と長野県北佐久郡軽井沢町との境にある峠であり、その標高は約960mである。「碓井峠」「碓水峠」は誤表記。
また、信濃川水系の川(日本海側河川)と利根川水系の川(太平洋側河川)を分ける中央分水嶺である。碓氷峠の長野県側に降った雨は日本海、群馬県側に降った雨は太平洋へ流れる。
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[編集] 地理
群馬県側の麓、安中市松井田町横川の標高は387m。長野県側の軽井沢は標高939m。直線距離で約10kmの間の標高差は500m以上に達する急峻な片勾配の峠越えで、山脈をトンネルで抜けることで峠越えの高低差を解消できる一般的な峠と異なり、数多くの困難を抱えた。
[編集] 歴史
[編集] 江戸時代以前
古来より中山道有数の難所として知られる。たいへんな難所であったため、幕末の1861年に和宮が徳川家茂に嫁ぐために中山道を通ることが決まった際、一部区間で大工事が行われ、和宮道と呼ばれる多少平易な別ルートが開拓された。また、関東と信濃国、さらには北陸とを結ぶ重要な場所として、峠の江戸側に関所(坂本関)が置かれ、厳しい取締りが行われた。
[編集] 明治時代以降
時代が明治に入ってもその重要性は変わらず、1882年に従来の南側に新道が作られ、1886年には馬や車での通行が可能となった。この新道は、坂本宿から碓氷湖付近まではおおむね和宮道を踏襲し、そこから西側は中尾川に沿って全く新しいルートとされ、軽井沢宿と沓掛宿の間で旧道と合流するものであった。新道の碓氷峠は、中山道旧道の碓氷峠(新道開通後は旧碓氷峠と呼ばれている)から南に3キロメートルほどの場所に移動した。
その後、道路は、1971年に国道18号のバイパスとして作られた有料道路の碓氷バイパス(入山峠)(2001年11月11日より無料となった)開通や、1993年の上信越自動車道の開通により、その重要性は薄れた。
[編集] 鉄道
鉄道においても、この難所を越えることは早くから重要視され、1893年に官営鉄道中山道線として横川~軽井沢間が開通した(横川駅~軽井沢駅間にあることから、碓氷峠の別名として「横軽(よこかる)」と呼ばれることがある)。これに先立って、1888年~1893年には碓氷馬車鉄道という馬車鉄道も、同線の資材輸送のため国道18号上に敷設されていた事があった。
しかし、資材や人員の運搬の便を図るため中山道沿いに線路を敷設したことが逆に仇となり、最大で66.7‰(パーミル・千分率。1/15=約3.8度)という急勾配が問題となった。急勾配を避けると相当の距離の迂回が必要で建設費がかかるため、この傾斜に真っ向から挑むことになったが、当時の通常の蒸気機関車では登坂が困難であったため、アプト式ラックレールが採用された。しかし、その後技術の進歩により、京阪電鉄京津線は碓氷峠と同じ66.7‰の勾配をラックレールなしで越え、箱根登山鉄道もラックレールなしで80‰の勾配を登坂している。
トンネルの連続による煙の問題から日本で最初の幹線電化が行われた(1912年)のもこの区間であるが、電化によって若干の輸送力増強はなされたものの、輸送の隘路であったことは相変わらずで、名だたる鉄道の難所として「西の碓氷峠、東の板谷峠」と並び称された。1900年に大和田建樹によって作成された『鉄道唱歌』第4集北陸編では、以下のように歌われている。
- 19.これより音にききいたる 碓氷峠のアブト式 歯車つけておりのぼる 仕掛は外にたぐいなし
- 20.くぐるトンネル二十六 ともし火うすく昼くらし いずれは天地うちはれて 顔ふく風の心地よさ
更に『鉄道唱歌』と同じ年に作成された、現在の長野県歌である『信濃の国』も、6番において以下のように碓氷峠を歌っている。
- 吾妻はやとし 日本武(やまとたけ) 嘆き給いし碓氷山 穿(うが)つ隧道(トンネル)二十六 夢にもこゆる汽車の道 みち一筋に学びなば 昔の人にや劣るべき 古来山河の秀でたる 国は偉人のある習い
太平洋戦争後は、輸送の隘路の解消のため、再度急勾配を避け最急勾配を22.5‰とする迂回ルートも検討されたが、結局、ルートをあまり変更せず、最大66.7‰の急勾配は存置したまま、一般的な車輪のみによる粘着運転で登坂することになり、1963年に新線が開通してアプト式は廃止された。それでも、登坂力、ブレーキ力を補うため、この区間のみ補助機関車(EF63形)の連結が必要とされるうえ、連結両数が最大8両に制限されたり、通過車両には車体の挫屈を防止するための台枠補強や連結器の強化を要する(通称「横軽対策」。対策施行車は、識別のため車号の頭に「●」が付された。)など、峠越えにはやはり特別な取り扱いを要した。1968年以降、EF63形との協調運転により12両編成での通過を可能とした電車(169系、489系、189系:識別として形式末尾番号が9)が投入され、輸送力の増強に寄与したが、抜本的な輸送改善には至らなかった。1985年(昭和60年)頃には、余剰のサロ183形を改造した碓氷峠を自力登坂可能な電車も計画されたが、北陸新幹線(長野新幹線)建設決定にともない、計画は放棄された。
碓氷峠の抜本的な輸送改善は、1997年の長野新幹線開通によってなされた。その際、信越本線の碓氷峠区間(横川~軽井沢間)は、県境を越えることもあってローカルの旅客流動が少なく、長距離旅客が新幹線に移動するとこの区間を維持できるだけの旅客数が見込めないことや、峠の上り下りに特別な装備が必要で維持に多額の費用がかかるとして、第三セクター等に転換されることなく廃止された。
この廃止の方針について、安中市の新島学園高等学校に通学する長野県の生徒の父兄を中心に廃止許可取消の行政訴訟を前橋地方裁判所に起こしたが、行政不服審査法による手続きを行わなかったため、内容に踏み込むことなく「原告不適格」の判決が下され、東京高裁の控訴審、最高裁の上告審も前橋地裁の決定を支持したため、横軽廃止の是非が司法の場で本格的に問われることはなかった。
2005年3月より碓氷峠鉄道文化むらと峠の湯の間に、トロッコ列車の運転が開始された。運転日は土曜・日曜・祝日となっている。動力車は、保線用として使用されてきたディーゼル車で、2両の客車を連結して運行されている。また、2006年にこのトロッコ列車を運行・管理している碓氷峠交流記念財団は政府に観光鉄道特区を提案した。しかし、国土交通省は現行の規定で可能と答えたため、観光や鑑賞を目的とした特定目的鉄道事業として申請を予定している。早ければ2006年10月に鉄道事業者の認可を受け、2007年10月の開業を目指している。認定されれば、横川~軽井沢間の鉄道が復活する可能性が大きい。トロッコ列車は現在ディーゼル車で運行されているが、将来的にはEF63形電気機関車の使用も視野に入れている。
[編集] アプト式時代に使用された機関車
- 国鉄3900形蒸気機関車
- 国鉄3920形蒸気機関車
- 国鉄3950形蒸気機関車
- 国鉄3980形蒸気機関車
- 国鉄EC40形電気機関車
- 国鉄ED40形電気機関車
- 国鉄ED41形電気機関車
- 国鉄ED42形電気機関車