神皇正統記
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神皇正統記(じんのうしょうとうき)は、南北朝時代に公家の北畠親房が、南朝の正統性を示すために、常陸国小田城(茨城県つくば市小田)で著した歴史書である。
神代から後村上天皇の即位(後醍醐天皇の死を「獲麟」に擬したという)までが、天皇の代毎に記される。執筆時期については、後醍醐天皇が崩御して、新王・後村上天皇が即位した延元4年/暦応2年(1339年)の秋ごろであると言われている。
奥書には「ある童蒙」に宛てるとされており、後村上天皇、或いは結城親朝に宛てたものとされている。君主の条件としてまず三種の神器の保有を皇位の必要不可缺の条件とする。だがその一方で、宋学(特に「春秋」・「孟子」・「周易」)の影響を受け、血統の他に有徳を強調している。従って、承久の乱を引き起こした後鳥羽上皇は非難され、逆に官軍を討伐した北条義時とその子北条泰時のその後の善政による社会の安定を評価して、「天照大神の意思に忠実だったのは泰時である」という一見矛盾した論理展開も見られるが、これも徳治を重視する親房から見れば、「正理」なのである。 また治承・寿永の乱の混乱期に神器を欠いた状態で後白河法皇の院宣により行われた後鳥羽天皇の即位自体を否定していないという矛盾も指摘されている。
承久の乱について、神皇正統記には次のように記されている。
源頼朝は勲功抜群だが、天下を握ったのは朝廷から見れば面白くないことであろう。ましてや、頼朝の妻北条政子や陪臣の北条義時がその後を受けたので、これらを排除しようというのは理由のないことではない。しかし、天下の乱れを平らげ、皇室の憂いをなくし、万民を安んじたのは頼朝であり、実朝が死んだからといって鎌倉幕府を倒そうとするならば、彼らにまさる善政がなければならない。また、王者(覇者でない)の戦いは、罪ある者を討ち罪なき者は滅ぼさないものである。頼朝が高い官位に昇り、守護の設置を認められたのは、後白河法皇の意思であり、頼朝が勝手に盗んだものではない。義時は人望に背かなかった。陪臣である義時が天下を取ったからという理由だけでこれを討伐するのは、後鳥羽に落ち度がある。謀反を起こした朝敵が利を得たのとは比べられない。従って、幕府を倒すには機が熟しておらず、天が許さなかったことは疑いない。しかし、臣下が上を討つのは最大の非道である。最終的には皇威に服するべきである。まず真の徳政を行い、朝威を立て、義時に勝つだけの道があって、その上で義時を討つべきであった。もしくは、天下の情勢をよく見て、戦いを起こすかどうかを天命に任せ、人望に従うべきであった。結局、皇位は後鳥羽の子孫(後嵯峨天皇)に伝えられ、後鳥羽の本意は達成されなかったわけではないが、朝廷が一旦没落したのは口惜しい。 (「廃帝」より、廃帝とは仲恭天皇のこと)
また、後醍醐天皇の政策にも「正理」にそぐわないところがあると批判的な記事も載せている。
全体として、保守的な公家の立場を主張し、天皇と公家(=摂関家と村上源氏)が日本国を統治して武士を統率するのが理想の国家像であるとする(特に公家や僧侶を「人(ひと)」、武士を「者(もの)」と明確に区別しているところに彼の身分観の反映がなされていると言われる)。その一方で、君臣が徳のある政治を守ってゆく事で、「正理」の元に歴史は誤った方向から正しい方向へと修正されるという能動的な発想を兼ね備えていた。
南北朝統一後、北朝正統論を唱える室町幕府の影響下に改竄や“続編”と称しながら親房の論を否定して、「続神皇正統記」が書かれた事もあった。だが、徳川光圀が「大日本史」で親房の主張を高く評価し、また本来親房的には否定されるべき存在である筈の江戸幕府の中にも泰時の例などを引用して「武家による徳治政治」の正当性を導く意見が現れるようになった。
水戸学と結びついた「神皇正統記」は、後の皇国史観にも影響を与えた。だが、明治になってから逆に国粋主義の立場から儒教や仏教、異端視された伊勢神道の影響を受けすぎているという理由で“重訂”という名の改竄(親房思想の否定)を行う動きも起こったが、これは定着には至らなかった。真の意味での「神皇正統記」研究が再び興隆するのは、現実政治から切り離された戦後暫くたってからのことである。
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