箸墓古墳
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箸墓古墳(はしはかこふん、箸中山古墳とも)は、奈良県桜井市箸中に所在する箸中古墳群の盟主的古墳であり、出現期古墳であり、最古級と考えられている大型の前方後円墳である。この古墳は、『魏志』倭人伝が伝える倭国の女王「卑弥呼」の墓の可能性が高く、卑弥呼の墓の最有力候補である。
現在は、宮内庁により第七代孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫命大市墓(やまとととびももそひめのみことおおいちのはか)として管理されており、墳丘への自由な出入りはできない。倭迹迹日百襲姫命とは、『日本書紀』では崇神天皇の祖父孝元天皇の姉妹である。大市は古墳のある地名。
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[編集] 名の由来
『日本書紀』崇神天皇十九月の条に、つぎのような説話が載せられている。
倭迹迹日百襲姫(やまとととびももそひめ)、大物主神(おほものぬしのかみ)の妻と為る。然れども其の神常に昼は見えずして、夜のみ来(みた)す。倭迹迹姫命は、夫に語りて曰く、「君常に昼は見えずして、夜のみ来す。分明に其の尊顔を視ること得ず。願わくば暫留まりたまへ。明旦に、仰ぎて美麗しき威儀(みすがた)を勤(み)たてまつらむと欲ふ」といふ。大神対(こた)へて曰(のたま)はく、「言理(ことわり)灼然(いやちこ)なり、吾明旦に汝が櫛笥(くしげ)に入りて居らむ。願はくば吾が形にな驚きましそ」とのたまふ。ここで、倭迹迹姫命は心の内で密かに怪しんだが、明くる朝を待って櫛笥(くしげ)を見れば、まことに美麗な小蛇(こおろち)がいた。その長さ太さは衣紐(きぬひも)ぐらいであった。それに驚いて叫んだ。大神は恥じて、人の形とになって、其の妻に謂りて曰はく「汝、忍びずして吾に羞(はじみ)せつ。吾還りて汝に羞せむ」とのたまふ。よって大空をかけて、御諸山に登ってしまった。ここで倭迹迹姫命仰ぎ見て、悔いて座り込んでしまった。「則ち箸に陰(ほと)を憧(つ)きて薨(かむさ)りましぬ。乃ち大市に葬りまつる。故、時人、其の墓を号けて、箸墓と謂ふ。(所々現代語)
[編集] 墳形・規模
最古級の前方後円墳によくみられるように前方部が途中から撥型(ばちがた)に大きく開く墳形である。
現状での規模は、墳長およそ280m、後円部は、径約150m、高さ約30mで、前方部は、前面幅約130mで高さ約16mを測る。その体積は約37万立方メートル。
周辺地域の調査結果から、本来はもう一回り大きかったものと思われる。
後円部は四段築成で、四段築成の上に小円丘がのったものと指摘する研究者もある。前方部は、側面の段築は明瞭ではないが、前面には四段の段築があるとされる。
奈良県立橿原考古学研究所や桜井市教育委員会の陵墓指定の範囲の外側を発掘した調査により、墳丘の裾に幅10メートルの周壕とさらにその外側に幅15メートル以上の外堤が存在していたことが確認されている。巨大な前方後円墳がその最古の時期から周壕を持つことが分かった。
[編集] 外表施設・遺物
墳丘の斜面には、川原石を用いた葺石が存在しているが確認されている。
この時期には埴輪列はまだ存在していないが、宮内庁職員によって特殊器台形土器、特殊器台形埴輪、特殊壺形埴輪、壺形埴輪などが採集されており、これらが墳丘上に置かれていたことは間違いない。また、特殊器台形埴輪、特殊壺形埴輪が後円部上でのみ認められるのに対して底部を孔を開けた二重口縁の土師器壺は前方部上で採集されており、器種によって置く位置が区別されていた可能性が高い。
埋葬施設は不明であるが、墳丘の裾から玄武岩の板石が見つかっていることから竪穴式石室が作られていた可能性があるという。
周濠は、前方部と後円部の一部分の発掘調査から、幅10メートル前後の周濠と幅数十メートル前後の外堤の一部が見つかっている。
[編集] 築造時期
墳丘形態や出土遺物の内容から白石太一郎らによって最古級の前方後円墳であると指摘されていたが、周辺部での発掘調査によって周濠の底から布留0式土器が出土し、古墳時代前期初頭(3世紀後半)の築造であることが確定した。
[編集] 意義
300mに迫る規模、全国各地に墳丘の設計図を共有していると考えられる古墳が点在している点、出土遺物に埴輪の祖形である吉備系の土器が認められる点など、それまでの墳墓とは明らかに一線を画している。 また、規模、埴輪などは以後の古墳のモデルとなったと考えられ、当古墳の築造をもって古墳時代の開始と評価する向きが多い。
[編集] 被葬者
後円部の規模が『魏志倭人伝』にある「百余歩」に一致することなどから、当古墳を卑弥呼の墓とする説もある。一歩は六尺で、魏・晋時代の一尺は24.12センチとされているから、一歩はほぼ1.45メートルとなり、百余歩は約150メートル前後となる。
また、築造時期の実年代観は研究者により多少の前後はあるものの、三世紀の後半に納まる点では一致しており、卑弥呼の死を247年(正始8)ないし248年に求める説が多い中で、その蓋然性は高まっているといえよう。
この古墳が卑弥呼の墓だとすると邪馬台国は奈良盆地の東南の「やまと」にあったことになり、長年続いている邪馬台国論争に終止符が打たれることになる。そういう意味では、日本歴史学上大変重要な意味を持つ古墳である。
[編集] その他
なお、桜井市教育委員会が2000年に実施した周辺部の発掘調査によって、周濠内の堆積土から木製の輪鐙(馬具)が発見されている。同時に出土した布留1式土器により四世紀のものとされるが、これにより列島内への騎馬文化の流入および東アジアにおける騎馬文化の伝播の理解が従来よりも古く修正されることになった。