細川ガラシャ
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細川ガラシャ(ほそかわ-、永禄6年(1563年) - 慶長5年7月17日(1600年8月25日))は明智光秀の三女で細川忠興の妻。名は玉(玉子、玉姫など)。キリシタン女性として有名。子は於長(おちょう:1579年生)、忠隆(1580年生)、興秋(1584年生)、忠利(1586年生)、多羅(たら:1588年生)。
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[編集] 来歴・人物
1563年、明智光秀と妻煕子の間に三女(四女説もある。ただしこの場合、長女と次女は養女であり、実質は次女となる)として生まれた玉は、1578年15歳のときに父の主君織田信長のすすめによって細川藤孝の嫡男・細川忠興に嫁いだ。玉は美女で忠興とは仲のよい夫婦であり、1579年には長女が、1580年には長男(細川忠隆)が二人の間に生まれた。
しかし1582年6月、父の光秀が主君・織田信長を本能寺の変で討って自らも滅んだため、玉は「逆臣の娘」となった。忠興は玉を愛していたがために離縁する気になれず、1584年まで彼女を丹後の味土野(現在の京都府京丹後市弥栄町)に隔離・幽閉した。
この間の彼女を支えたのは、光秀が玉の結婚する時に付けた小侍従や、細川家の親戚筋にあたる清原家の清原いと(公家清原枝賢の娘)らの侍女達だった。
1584年3月、信長の死後に覇権を握った羽柴秀吉のとりなしもあって、忠興は玉を細川家の大坂屋敷に戻した。この年に興秋が生まれている。 これらの人生の変転の中で、玉はカトリックの話を聞き、その教えに心をひかれていった。
このころ後の肥後熊本藩主忠利・幼名光が生まれたが体が弱く、玉は日頃非常に心配していた。こんな中、1587年に夫の忠興が九州出陣2月11日(3月19日)し、彼女は意を決してカトリックの教えを聞きに行った。教会ではそのとき復活祭の説教を行っているところであり、玉は修道士にいろいろの質問をした。そのコスメ修道士は後に「これほど明晰かつ果敢な判断ができる日本の女性と話したことはなかった」と述べている。
教会から戻り、玉は大坂に滞在していたグレゴリオ・セスペデス神父のはからいで密かに洗礼を受け、ガラシャ(Gratia、ラテン語で恩寵・神の恵みの意)という洗礼名を受けた。
しかし、後に秀吉は宣教師追放令を出しキリスト教徒を長崎に追放し、大名は許可無くキリスト教を信仰することを禁じられた。 忠興は家中の侍女らがキリスト教に改宗したことを知って激怒し、改宗した侍女たちの鼻を削ぎ、追い出した。
幸いにもガラシャは発覚を免れたが、拠り所を失ったガラシャは「夫と別れたい」と宣教師に打ち明けた。宣教師は「誘惑に負けてはならない」「困難に立ち向かってこそ、徳は磨かれる」と説いた。それまで、彼女は気位が高く怒りやすかったが、キリストの教えを知ってからは謙虚で忍耐強く穏やかになったという。
関ヶ原の戦いが勃発する直前の1600年7月16日(8月24日)、大坂の細川屋敷にいた彼女を、西軍の石田三成は人質に取ろうとしたが、ガラシャはそれを拒絶。その翌日、三成が実力行使に出て兵に屋敷を囲ませると、ガラシャは家老の小笠原少斎に胸を貫かせて死んだ(カトリックで自殺は大罪であるため)。 享年38。 次のような辞世が伝わっている。
- 「ちりぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」
このあと、小笠原少斎は屋敷に火をかけて自刃した。ガラシャの死の数時間後、オルガンティノ神父は細川屋敷の焼け跡を訪れてガラシャの骨を拾い、堺のキリシタン墓地に葬った。細川忠興はガラシャの死を深く悲しみ、後に大坂の崇禅寺へ改葬した。
なお、細川屋敷を三成の兵に囲まれた際に、ガラシャは長男の細川忠隆の正室で前田利家娘の千世に逃げるように勧めたと言われ、千世は姉・豪姫の住む隣の宇喜多屋敷に逃れた。しかし、これに激怒した忠興は世子・忠隆に千世との離婚を命じ、反発した忠隆を勘当廃嫡してしまった(忠隆子孫はのちに細川一門家臣・長岡内膳家となり明治に至り細川姓に復している)。
[編集] 補足 本能寺の変後の幽閉
玉姫(ガラシャ)の幽閉先とされる場所であるが、丹後味土野の山中(現京丹後市弥栄町)に1582年9月以降に幽閉されたことは史実。しかし一方、「丹波史」には丹波味土野にガラシャが隠棲していたとの伝承「丹波味土野説」がある。 この伝承が事実とすると、本能寺の変(1582年6月)直後には、細川忠興はガラシャをまず明智領の丹波味土野屋敷に送り返し、明智が滅亡したのちに改めて細川領の丹後味土野に屋敷を作ってガラシャを幽閉したとも考えられる。
[編集] 外部リンク
[編集] 細川ガラシャの登場する作品
- 小説
司馬遼太郎「胡桃に酒」(短編集「故郷忘じがたく候」に収録)
三浦綾子「細川ガラシャ夫人」