藤原忠実
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藤原忠実(ふじわら の ただざね、承暦2年(1078年) - 応保2年6月18日(1162年7月31日))は、平安時代後期の公卿。藤原師通の長男。母は藤原俊家の娘。日記『殿暦』を残す。別名知足院殿、禅閤。
『栄花物語』の続編の最後(40巻「紫野」)は当時15歳で中納言となった忠実が奈良の春日大社に春日祭を主催して帰京する場面で締めくくられ、忠実の元で藤原摂関家が再び興隆する期待感をもって終わっている。だが現実の忠実は22歳の時に父・師通が急死、その後継を巡って一族が争う中、白河院の「摂関家は嫡流に継承されるべき」という判断に従う形で忠実が後継者となる。このため、摂関家は完全に院政の風下に立つ事になり、忠実は摂関家の「栄花」を再び取り戻すという夢を生涯かけて追求する事になる。
1100年に右大臣となり、1105年に堀河天皇の関白に任じられる。1107年、鳥羽天皇の即位にとともに摂政となり、1113年には再び関白に転じる。
だが、1120年に娘泰子の入内問題で白河院の怒りを買い、1121年に関白を長男忠通に譲った。
1129年に鳥羽院政が始まると政界に復帰を果たす。忠実は才気ある次男頼長を偏愛する一方で跡継ぎである忠通に男子が生まれないことを危惧していた。そこで忠実は忠通に頼長を養子にするように勧めた。ところが、忠通に男子が生まれると頼長との縁組を破棄したために、これに憤る忠実と忠通は対立する。そのため1150年、氏長者を忠通から奪い、頼長に与えた。1151年、忠実の尽力により頼長は内覧の宣旨を受け、一時、頼長の権勢は忠通をしのぐ程になる。しかし、1155年、近衛天皇が子なく崩御し、忠通の推す後白河天皇が即位すると頼長は失脚してしまう。
頼長は崇徳上皇に接近して、1156年、保元の乱が起こる。敗れた頼長は忠実に対面を望むが忠実は拒み、頼長は失意のうちに死んだ。乱後、罪を問われ流罪になりかかるが忠通のとりなしで罪を免れ、以後は奈良の知足院に隠棲する。だが、それも親子愛からではなく、忠実が所有していた摂関家伝来の所領が罪人の財産として没収される事を忠通が恐れたからであると言われている。
そうした事情のためか、忠通の息子である慈円は著書『愚管抄』の中で、祖父である忠実が死後に怨霊となって自分達(忠通の子孫)に祟りをなしていると記述している。
[編集] 官歴
- 寛治3年(1089年)
- 寛治5年(1091年)
- 寛治6年(1092年)
- 1月26日:権中納言に転任し、右近衛中将如元
- 寛治7年(1093年)
- 1月5日:従二位に昇叙し、権中納言・右近衛中将如元
- 3月28日:左近衛大将を兼任し、右近衛中将を止む
- 嘉保2年(1095年)
- 4月15日:正二位に昇叙し、権中納言・左近衛大将如元
- 3月24日:権大納言に転任し、左近衛大将如元
- 10月6日:藤原氏長者宣下
- 康和5年(1103年)
- 8月17日:東宮(のちの鳥羽天皇こと、宗仁親王)傅を兼任
- 12月25日:関白宣下。右大臣・東宮傅如元
- 3月11日:東宮傅を辞任
- 嘉承2年(1107年)
- 7月19日:関白を止め、摂政宣下。従一位行左大臣源俊房の次位たる旨。このため一座宣下無し
- 天永4年(1113年)
- 11月12日:内覧を停む
- 保安2年(1121年)
- 1月17日:内覧如元
- 1月22日:関白を辞す
- 6月5日:准三宮宣下
- 10月2日:出家。法名は圓理
- 6月18日:薨去。享年85
[編集] 系譜
- 室:藤原盛実女
- 次男:藤原頼長(1120-1156)