藤原豊成
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藤原 豊成(ふじわら の とよなり、大宝4年(704年) - 天平神護元年11月27日(766年1月16日))は奈良時代の貴族。藤原武智麻呂の長子。藤原継縄・乙叡の父。別名難波大臣。
737年(天平9年)における天然痘の猖獗によって父をはじめとする四兄弟が急死すると、藤原氏の氏上となり、急遽兵部卿に、続いて参議に任命されて官位も従五位上から従四位下まで昇進することとなった。
749年に右大臣。756年(天平勝宝8歳)、大炊王(淳仁天皇)が弟藤原仲麻呂の後押しで立太子したことから、政権の外に押し出され気味となり翌年の橘奈良麻呂の乱に連座して大宰員外帥に落とされた。
だが、これに抗議の意を込めて「病気」と称して難波にあった自分の別荘に籠ったため、大宰府行きは無期延期状態となり豊成はそこで8年間の隠遁生活を送った。764年、仲麻呂が道鏡排斥に失敗して失脚し殺害された後(藤原仲麻呂の乱)、従一位右大臣として復帰した。内室百能(ももよ)は豊成の死後、十二女司で絶大な地位を固めることになる。