説文解字
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説文解字(せつもんかいじ ピンイン:Shuōwén Jiězì)は、最古の部首別漢字字典。略して説文ともいう。後漢の許慎(きょしん)の作で和帝のとき(紀元100年/永元12)に成立。叙1篇,本文14篇、所載9353字。漢字を540の部首に分けて体系付け、その成り立ちを「象形・指事・会意・形声・転注・仮借」の6種(六書;りくしょ)に分けて解説する。 見出し字には小篆を用いる。
部首の立て方は陰陽五行の理念に基づく面が強く、現今の漢字字典における形状を主体とした部首の立て方とは幾分様相が異なる。成立の当時、甲骨文字が知られてなかったため、漢字の本義を俗説や五行説等に基づく牽強付会で解説している部分もあるが、19世紀に至るまで漢字研究の「聖典」的地位を占め、その説は絶対視されてきた。新たな研究成果でその誤謬は修正されつつも、現在でもその価値は減じていない。
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[編集] 『説文解字』成立の背景
前漢の儒教では五経博士が家法によって経書を講釈していた。やがて孔子旧宅の壁中や民間から、博士が教えるものとは違うテキストが発見された。これは、先秦時代の古い書体で書かれていたので、通行の隷書体(今文)のテキストに対して古文経伝と呼ばれた。前漢末の劉歆はこれを学官に立てようとして既存の博士たちと対立したが、平帝の時代と王莽の新朝で学官に立てられた。しかし、後漢では王莽政権を否定するため、今文学が継承され、古文経伝に学官が立てられることはなかった。そのため、古文学は民間で行われるようになり、経文の一字一句を解釈する訓詁学を発展させた。その強みは今文経学が一経専門で視野が狭いのに対して、文字に還元することで六経全般に貫通する解釈を打ち出せることであった。そのような状況で古文学者の賈逵の弟子に許慎が出た。彼は古文学の正統性を字体の違いに見いだし、古い先秦の字体に基づくことを今文学を攻撃する道具とした。そして、篆書や古文を『説文解字』にまとめ、『周礼』古文義法の六書説に従った「字形」による文字解釈の方法を確立させたのである。
[編集] テキスト
説文解字のテキストには、宋の徐鉉『説文解字』(大徐本)と徐鍇『説文解字繋傳』(小徐本)がある。
[編集] 注釈
注釈では清の段玉裁が著した説文解字注30巻(段注説文解字)が著名。他に桂馥の『説文解字義証』、朱駿声の『説文解字通訓定声』といった優れた注釈がある。多くの注釈を網羅しているものに丁福保の『説文詁林』がある。
また段玉裁の『説文解字注』を読むには、その誤りを校正した馮桂芬の『説文解字段注攷正』を参照しなければならない。
白川静に注釈「説文新義」は説文解字を段注説文にも触れながら解説しているが、伝統的解釈に束縛されない、資料と商周文化への深い造詣、考察に基づいた独自の文字学を展開している。
[編集] 日本の国宝
- 説文解字木部残巻 - 本紙 縦25.4cm、全長243cm/唐代9世紀/武田科学振興財団 杏雨書屋蔵