諫早湾
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諫早湾(いさはやわん)は、有明海の中で最大の湾。地元では泉水海とも呼ばれた。
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[編集] 地理
有明海の中央部に面し、佐賀県から長崎県にまたがる多良岳山系と島原半島に南北から挟まれている。
遠浅の干潟を利用して、古くより干拓が行われてきたが、1989年より着工した大規模干拓事業(国営諫早湾干拓事業)が有明海全体を含んだ環境保全上の争点となっている。
[編集] かつての自然環境
[編集] 干拓事業の沿革
[編集] 干拓に伴う環境破壊と漁業被害
1989年より「国営諫早湾干拓事業」の工事が行われ、1997年4月14日に潮受け堤防が閉じられた。それ以降、その影響によって有明海全体が死の海と化したとして、自然保護団体のみならず、沿岸の漁協の猛反対にあっている。
2001年に武部勤農林水産大臣(当時)は、干拓事業の抜本的な見直しを表明したものの、所管大臣には、在任中にしかその権限がないため、武部の農相退任後、農水省は一転して推進の立場に逆戻りした。
さらに、2005年8月30日には、漁民らが公害等調整委員会に対して求めていた、有明海における漁業被害と干拓事業との因果関係についての原因裁定申請が棄却されたところであり、係属中の他の裁判への影響も懸念されている。
[編集] 地元における干拓事業推進派の背景
一方、諫早湾南岸の諫早市小野地区及び同市森山町地区には強固な推進派住民が多い。この地域は島原半島首頚部の狭隘な地峡に当たり、江戸時代から昭和期にかけての干拓によって集水域面積に見合わないほどの広大な干拓地を擁するに至った地域である。
例えば森山町の林野面積646haに対して耕地面積941haであり、この耕地面積の84.2%が水田である[1]。これは諫早湾北岸北高来郡高来町(現諫早市高来町)の林野面積3,231haに対する耕地面積が725haであり、そのうち水田面積が66.6%である[2]ことと比較すると、その水田面積と比べてこれを涵養する集水域の狭さが理解できる。
諫早湾岸6町の土地利用を農林水産省統計部のサイト「わがマチ・わがムラ」のデータよりExcelによりグラフ化(2004年7月8日現在)
森山町の林野に対する水田比率の高さは突出している
このため、この地域では不足しがちな灌漑用水を干拓地水田のクリーク網に溜めることで確保してきた一方、水をしっかりくわえ込む構造のクリーク網を備えた水田は梅雨期にこの地方を頻繁に襲う集中豪雨によって容易に冠水し、田植え直後の稲が壊滅的打撃を受ける危険と隣り合わせの米作りを強いられてきた。こうした悪条件の克服は市、町といった一地方公共団体レベルの事業では手があまり、国、県レベルの事業による給排水問題の解決が望まれてきた。
しかしこの問題は、干拓事業が計画されて以来本来農耕地の拡大を主目的とする干拓事業の副産物(堤防外の水面低下と調整池の成立)で解決できるとして長期にわたって放置され、干拓事業の遂行がこの地域で水稲栽培を中心とする農業を継続するための唯一の選択肢であると喧伝された。こうして地域の農民及び自治体行政の声は干拓推進を希求する方向で固まっていき、乏しい灌漑用水を地域の中で公平に分配する必要から生じた共同体の決定事項に異論を唱えることを強く控える気風ともあいまって、異論がほとんど外に漏れる余地もない強固な干拓推進派地区が形成されてきたのである。
これが国や県当局が事業の当初からこの干拓は地域の人命と財産を守る防災をも目的としており、本来の防災目的として干拓を遂行しているとする根拠であり、諫早市小野地区と森山町地区住民、特にその中の水稲農家は事業遂行の人質的立場にあるとも言える。
一方、反対派の主張にも疑問が唱えられている。反対派は科学的根拠の薄い主張によって感情的に否定しているだけ、という指摘もある。また、農業従事者と漁業従事者には違った影響があることから、双方の主張が対立している。更に、地域住民の問題としてではなく、環境団体などから環境問題の象徴的存在として扱われているという側面もある。
干拓事業に賛成にせよ反対にせよ、いずれの主張も立場によって正当性がある為、容易に結論を出せない問題となっている。一方、生態系への影響という観点からはあまり顧みられていないという問題点もある。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 諫早湾干拓事業について(農林水産省)
- 諌早湾干拓事業公式資料ぺージ
- 諫早湾トップ(長崎新聞)
- 諫早湾ニュースカレンダー(KTNテレビ長崎)
- リンク集
- 不機嫌なジーン
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