足利直冬
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
足利直冬(あしかがただふゆ、嘉暦2年(1327年)? - 応永7年(1400年)?)は、南北朝時代の武将である。室町幕府将軍足利尊氏の妾腹の子で、母は出自不明の越前局と伝えられる。異母兄弟に足利義詮、足利基氏。妻や、冬氏ほか数人の子が存在したと言われている。幼名は新熊野殿。法名は慈恩寺玉渓道昭。
[編集] 伝記
実父である足利尊氏に認知されず、幼少時は相模国鎌倉の東勝寺(神奈川県鎌倉市)において喝食となる。1345年頃には還俗して上洛、京都では玄恵法印に紹介され叔父の足利直義の養子となり、時期不明だが直義に一字を与えられて直冬と名乗る。その後も数年は父の尊氏との対面は許されずに認知されていなかったと言われる。48年には初陣を行い、紀伊など各地で南朝勢力と戦い戦功をあげて帰還する。
室町幕府では将軍尊氏とともに二元政治を行っていた直義と、各地で軍事的功績のあった執事の高師直らとの対立が存在し、やがて内紛に発展して観応の擾乱に至る。古典『太平記』によれば、直義の猶子である直冬の凱旋に対しても足利家家中からは冷ややかな視線が存在したと記されている。49年には直義の提案で直冬は長門探題に任命され、4月には京都を出発する。京都では8月に師直のクーデターで直義が失脚しており、直冬は上洛しようとするが、播磨の赤松則村(円心)に阻止される。直冬は中国地方において軍勢を催促するなどの態度を取ったため、将軍尊氏は直冬の討伐を下す。9月には鞆津(広島県福山市)で師直の兵に襲撃され、九州へ逃れる。
九州では49年9月肥後国河尻津(熊本県熊本市)から上陸し、足利将軍家の権威を利用して国人勢力や阿蘇氏に所領を寄進するなどして足場を築く。直冬の九州落ちを知った幕府では出家と上洛を命じるが、再び討伐を下す。九州では征西将軍宮懐良親王を擁する南朝方の菊池氏や、足利方の九州探題で博多を本拠とした一色範氏(道猷)、大宰府の少弐頼尚らの勢力が存在し、直冬は、将軍尊氏より直冬の討伐命令を受けた一色氏らと戦い、懐良親王の征西府とも協調路線を取り大宰府攻略を目指す。
少弐頼尚は当初、一色氏と協調して直冬と戦っていたが、直冬の勢力が拡大すると一色氏への対抗心から50年9月には直冬を迎える。一説によれば婿にしたと言われ、勢力を拡大した直冬らは一色氏を博多から駆逐する。直冬と少弐氏との同調を受けて、幕府では尊氏自ら九州下向のため出兵するが、その最中に直義が京を脱出し、支持勢力を集めて南朝に帰順して挙兵したために中止される。尊氏は直義勢に敗れて和議を結ぶが、51年2月には高師直、師泰兄弟が討伐される。直義が政界に復帰すると、直義は3月に鎮西探題に任命される。
京都において尊氏と直義の間で再び不和が生じ、51年に尊氏が南朝と一時的に講和する正平一統が成立し、尊氏は南朝後村上天皇から直義討伐令を得る。直冬に対しても再び討伐令が下り、一色氏が征西府と協調して勢力を巻き返す。52年(正平7年/文和元年)には直義が降伏し、2月に急死。正平一統は破綻するが、九州において孤立した直冬は中国地方へ逃れ、長門国豊田城へ拠る。直冬は時期不明だが南朝に帰服し、旧直義派や、反尊氏勢力で南朝にも接近していた桃井直常、山名時氏、大内弘世らに後援され、54年には九州時代から工作を続けていた京都へ上洛を開始し、55年には南朝と協力して京都から尊氏を追い、一時的に奪還する。
58年には尊氏が死去するが、南朝勢力が衰微すると大内、山名らも幕府に下り、1366年の書状を最後に消息は不明、石見に隠棲したとも。足利氏の系図では没年を1386年(74歳死亡説)としている。また、室町時代の1441年に6代将軍の足利義教を殺害し、播磨で挙兵した赤松満祐は、直冬の孫であるという義尊を擁立して戦っており、満祐の敗死に伴い義尊も討ち取られている。
[編集] 参考文献
- 瀬野精一郎 『足利直冬』(吉川弘文館/2005年)ISBN 464205233X
[編集] 関連
カテゴリ: 足利氏 | 南北朝時代の人物 (日本) | 武士