野田毅
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生年月日 | 1941年10月3日 |
出身地 | 東京都 |
最終学歴 | 東京大学法学部 |
前職 | 大蔵省勤務 |
役職 | 元・建設大臣 元・保守党党首 |
世襲の有無 | 二世 義父・野田武夫 |
選挙区 | 熊本2区 |
当選回数 | 12回 |
所属党派 | (自由民主党→) (高志会=自由改革連合→) (新進党→) (自由党→) (保守党→) 自由民主党(山崎派) |
党の役職 | 衆議院議員総会長 |
会館号室 | 衆・第二議員会館415号室 |
ウェブサイト | http://www.nodatakeshi.com/ |
野田 毅(のだ たけし、1941年10月3日 - )は、日本の政治家、自由民主党所属の衆議院議員。東京都出身。旧姓、小立。
大阪府立寝屋川高等学校を経て、1964年に東京大学法学部を卒業、大蔵省へ入省。当初から政治家を志し、入省時の面接試験で「いずれ政治家になりたい」旨を答えている。1968年に野田武夫元衆議院議員の許へ婿入りし、野田姓となる。1972年、野田武夫の急逝に伴い大蔵省を退官、後継者として同年末の衆議院総選挙に旧熊本1区から出馬し初当選。
中曽根派に所属、藤波孝生の側近として「新生クラブ」の事務局長を務め、同派で同期当選、渡辺美智雄系の山崎拓とはライバル関係であった。
1989年6月の宇野内閣で建設大臣に就任し初入閣。2年後の1991年11月には、宮澤内閣において国務大臣・経済企画庁長官として2度目の入閣を果たした。
1994年、日本社会党委員長・村山富市への首班指名に反対し、海部俊樹らと自民党を離党。同年、新進党結党に参加する。その後の新進党分裂では小沢一郎と行動を共にし自由党を結成。自由党が与党入りしたことにより、1999年の小渕恵三内閣では自治大臣・国家公安委員長に就任し3度目の入閣。2000年、自由党が分裂した際は小沢と袂を分かち海部、加藤六月、二階俊博らと保守党を新たに結成し、与党残留の道を選んだ。
2001年、扇千景の後任として保守党党首に就任。この時の自民党幹事長が山崎拓で、かつてライバル関係にあった2人もこの時は打ち解け、その仲が接近した。2002年12月の保守新党結党を前に、保守党党首でありながら小池百合子らを連ねて自民党に復党した。
経済・商工分野に明るい。また、日中協会会長を務めるなど、親中国の立場を鮮明にし、小泉前首相の靖国神社参拝や外交姿勢を批判した。
2005年、郵政民営化法案では総務会決議において反対し、衆議院本会議では棄権した。
[編集] 来歴
- 1972年12月 - 自由民主党公認で衆議院議員初当選。
- 1978年12月 - 経済企画政務次官就任。
- 1980年7月 - 通産政務次官就任。
- 1986年1月 - 衆議院商工委員長。
- 1989年6月 - 建設大臣就任。
- 1991年11月 - 国務大臣・経済企画庁長官就任。
- 1994年7月 - 自由民主党を離党。
- 1998年1月 - 自由党結党に参加、幹事長に就任。
- 1999年1月 - 自治大臣・国家公安委員長就任。
- 2000年4月 - 自由党を離脱し保守党結党に参加、幹事長に就任。
- 2001年9月 - 保守党党首に就任。
- 2002年12月 - 自由民主党へ復党。
- 2006年10月 - 党衆議院議員総会長、党総務に就任。
また、近未来政治研究会(山崎派)常任顧問に就任。
[編集] 外部リンク
- 国家公安委員会委員長
- 1999
-
- 先代:
- 西田司
- 次代:
- 保利耕輔