長崎街道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
長崎街道(ながさきかいどう)は、江戸時代に整備された脇街道の一つで、豊前国小倉(福岡県北九州市小倉北区)の常盤橋を始点として、肥前国長崎(長崎県長崎市)に至る路線である。57里(約223.8km)の道程で、途中に25の宿場が置かれた。
又、現在においては、江戸時代の長崎街道に沿って走る国道200号や国道3号、国道34号の通称としても用いられる。
[編集] 概要
江戸時代においては、鎖国政策の下で全国唯一、幕府が外国との交易を行う港である長崎に通じる街道として、非常に重視された。そのため、九州における唯一の幕府直轄の街道であった。
筑前、筑後、肥前、肥後、薩摩の諸大名の参勤交代のほか、長崎奉行、日田郡代の交代、更にはオランダ人や中国人の江戸参府、そして交易・献上品の運搬にも用いられた。
小倉と長崎をできるだけ最短距離で結ぶよう、直線に沿うように整備されたため、遠賀川沿いや佐賀平野など平坦な箇所もあるが、概して道程は険しく、最大の難所冷水峠(福岡県飯塚市・筑紫野市間)、最後の難所日見峠(長崎県長崎市)のほか、現在の佐賀県と長崎県の県境である俵坂峠(佐賀県嬉野市・長崎県東彼杵町間)、現在では周囲の宅地開発などにより山が掘削されてしまったが、当時は筑前国・筑後国・肥前国の三国の境界が接する地点で、現在も福岡県と佐賀県の境界である三国峠(福岡県筑紫野市・佐賀県鳥栖市間)などの難所があった。
これらの難所が控えているため、幕府直轄の街道である事により、各種料金が割高に設定されていた。更には藩政上の理由もあり、各藩では並行する街道や有明海、大村湾を渡る航路も整備して使用した。庶民の間でもそちらを通行する事も多く、現在でもそれらの街道も含めて広義に長崎街道と呼ぶ場合がある。
尚、江戸初期の開通時には、北方の手前で六角川に沿って南へと折れて塩田より塩田川を上り嬉野へと向かう塩田道が本道であったが、塩田川の度重なる氾濫により度々通行不可能となった。そのため、1705年(宝永2年)に、六角川支流の武雄川沿いに北方、そして当時から武雄温泉として賑わっていた塚崎を経由し、塚崎の先で南へと向かい嬉野へと至る塚崎道が作られ、こちらが本道となった。
現在、北九州市(木屋瀬宿)や塩田町(塩田宿)では「長崎街道」と記した旗がPRとして並び、東彼杵町や大村市、佐賀市付近には道路沿いに道しるべの碑がいくつかある。佐賀市(佐賀宿)付近では佐賀城のすぐ北側を通り、防衛のためにぎざぎざと曲がりくねった道になっているほか、現代になってからは、他の道路と区別して違う色の舗装がなされている。
[編集] 宿場
以下は1705年以降、塚崎道を通る場合に通過する宿場である。
- 黒崎宿(福岡県北九州市八幡西区)
- 木屋瀬(こやのせ)宿(福岡県北九州市八幡西区)木屋瀬宿記念館
- 飯塚宿(福岡県飯塚市)
- 内野宿(福岡県飯塚市)
- 山家(やまえ)宿(福岡県筑紫野市)
- 原田(はるだ)宿(福岡県筑紫野市)
- 田代宿(佐賀県鳥栖市)
- 轟木(とどろき)宿(佐賀県鳥栖市)
- 中原(なかばる)宿(佐賀県三養基郡みやき町)
- 神埼宿(佐賀県神埼市)
- 境原(さかいばる)宿(佐賀県神埼市)
- 佐賀宿(佐賀県佐賀市)
- 牛津宿(佐賀県小城市)
- 小田宿(佐賀県杵島郡江北町)
- 北方宿(佐賀県武雄市)
- 塚崎(柄崎)宿(佐賀県武雄市)
- 嬉野宿(佐賀県嬉野市)
- 彼杵(そのぎ)宿(長崎県東彼杵郡東彼杵町)
- 松原宿(長崎県大村市)
- 大村宿(長崎県大村市)
- 永昌(えいしょう)宿(長崎県諫早市)
- 矢上宿(長崎県長崎市)
- 日見宿(長崎県長崎市)
- 長崎(長崎県長崎市)
黒崎から原田までは筑前国であり、これらを特に筑前六宿と呼ぶ。
また、塩田道を通る場合は、小田宿と嬉野宿の間、次の宿場を通過する。
- 鳴瀬宿(佐賀県武雄市)
- 塩田宿(佐賀県嬉野市塩田町)
[編集] 関連項目
カテゴリ: 街道 | 九州地方の歴史 | 道路関連のスタブ項目