アントニオ・サラザール
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アントニオ・サラザール(António de Oliveira Salazar、1889年4月28日 - 1970年7月27日)はポルトガルの政治家、首相および一時大統領で、権威主義的独裁者と言われた。
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[編集] 経歴
サラザールはポルトガル北部の11人の貧しい家族の末っ子(唯一の男の子)に生まれた。1900年(11歳)から1914年(25歳)までの間神学校で学び、当初は聖職者を目指していたが、当時のリスボンでは僧侶が多すぎたので、下級聖品叙品式の後に教会登録済みとして還俗しコインブラ大学で法学を学んだ。生涯熱心なカトリック教徒であった。1917年に第一共和制政府から大臣になるよう依頼を受けるが断り、1918年コインブラ大学で政治経済学講師から教授に就任し教鞭を執った。政治経済学教授としてのサラザールは人気教授で、サラザールの講義には多くの学生が集まった。
アントニオ・オスカル・カルモナが率いた1926年5月28日の革命にはサラザールは参加しなかったが、カルモナ大統領の要請により政府に参加した。しかし、サラザールは軍部の干渉に反発して一旦は辞職。カルモナ大統領の再度の要請により1928年に大蔵大臣に就任し、緊縮財政、デフレ政策を断行して危機的財政の建て直しを行った。この時の手腕が評価されたことにより政治家としての地歩を固めたサラザールは、世界恐慌の危機の下で1932年に首相に昇格した。翌1933年に新憲法を制定して「神、祖国、そして家族」をスローガンに、新国家「エスタド・ノヴォ」の成立を宣言、長期にわたるファシズム独裁体制を敷いた。サラザールの独裁政治についてはエスタド・ノヴォの項目を参照。
サラザールは巧妙に政治的バランスを計っていた。彼は熱心なカトリック信者であり、元々政治に関わりを持ち始めたのも、カトリック教会派として新聞に記事を書き始めたのが始まりであったが、カトリック教会とは微妙な距離を置きながら親密な関係を保っていた。地主層や商工業者の支持を得て、また彼は亡命中の王族を含む君主制論者の支持も取り付けていた。ファシストではあるが、隣国スペインのフランコ将軍やイタリアのムッソリーニらと比較すると穏健であった。社会改革者として一部左派にまで支持層を広げる一方、全くの敵対勢力は秘密警察を利用して始末した。
1937年に、隣国のスペインにフランコ将軍のファシズム政権が誕生すると、直ちに承認し、1939年には友好不可侵条約を締結した。1940年にはローマ教皇庁と協定を結んだ。第二次世界大戦ではスペインと共に中立を宣言、連合軍の勢いが増すとアゾレス諸島をアメリカ軍の基地として提供するなどした。このため、大戦後も欧米諸国との関係が良好に推移したこともあり、独裁体制が戦後も長期に渡って継続したが、1968年に事故による病によって辞任させられた。辞任後は療養生活を送り1970年に没した。
しかし、独裁体制は後継のマルセロ・カエターノ首相によって維持され、1974年のカーネーション革命によって打倒されることになる。
[編集] 1968年の病について
1968年、サラザールはハンモックでの昼寝中誤って転落、頭部を強打して意識不明の重体となった。2年の時をおき意識を取り戻したが、その頃には政権がカエターノの手に移っていたため、彼の側近や身の周りの人間たちは、彼にショックを与えないため、その執務室を病態に陥る以前と同じ状態に保全し、のみならず当時のポルトガルの動乱のことなどは一切記載されない偽の新聞を読ませ、サラザールが権力を喪失した落胆に見舞われないよう配慮した。サラザールはこの執務室で、何の影響力もない命令書を書き、偽新聞を読んで晩年を過ごした。その甲斐あってサラザールはポルトガルの混乱を知らないまま、間もなく幸福に世を去ったという。
[編集] 私生活
私生活は謎に包まれていた。孤独を好み、素性の知れぬ2人の少女と暮らし、フランスの女性ジャーナリストが愛人だったという噂もある。ちなみに彼はハリー・ポッターシリーズの登場人物「サラザール・スリザリン」のモデルである。
[編集] 関連項目
- ポルトガルの首相
- 1932-1968
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- 先代:
- ドミンゴス・コスタ・オリヴェイラ
- 次代:
- マルセロ・カエターノ
- ポルトガルの大統領
- 1951
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- 先代:
- アントニオ・オスカル・カルモナ
- 次代:
- クラヴェイロ・ロペス
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