ジャン=クロード・デュヴァリエ
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ジャン=クロード・デュヴァリエ (Jean-Claude Duvalier, 1951年7月3日- )はハイチの政治家。愛称「ベベ・ドク」(Bébé Doc)または「ベビー・ドック」(Baby Doc)。
独裁者と呼ばれたハイチの大統領フランソワ・デュヴァリエの息子。世襲して大統領になり、15年間独裁者として君臨した。
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[編集] プロフィール
1951年、父フランソワ、母シモーヌのもとで生まれる。ハイチ国立大学法学部で学び、父の死の直後の1971年に世襲の大統領になった(そのとき若干19歳だった)。アメリカとの経済協力を強めたが、国民の生活は窮乏した。1980年に国内の財閥令嬢ミシェル・ベネットと結婚。1983年には終身大統領になり一族ともども贅沢に生活し、閣僚たちは蓄財に励んだ。
その腐敗ぶりから1978年ごろから反政府暴動が盛んになり、武装蜂起や暴動が相次いだが徹底的に弾圧して対応し国際問題化した。1985年に全国規模の反乱が発生。反乱の共産主義化を恐れたアメリカ、フランスによって説得され、1986年に米軍機でフランスに亡命した。
亡命先のフランスでは、財産を差し押さえられた挙句、妻と離婚した。一時は困窮したが、別の女性と再婚することにより立ち直り現在では充足した生活を送っている。だが、自分の大統領時代については何の反省もしていないという。
[編集] 治世
彼は、1977年からジャン・クロード主義と名付けた経済開放政策をハイチで展開した。これは、アメリカの援助と資本を導入し、混血のテクノクラートを重要して工業化と近代化を目指す政策だった。しかし、農業や牧畜は衰退し恐怖政治や飢饉を逃れる難民のボートピープルがアメリカに殺到した。このことから国内の有力者たちに見離され最後は追放された。
[編集] 人物・家族
彼は、世界で最も若くして大統領となった。ジャズ狂で趣味は、世界の高級車やオートバイを収集してフルスピードで乗り回すことだった。最初の妻は、極貧の国民を尻目にパリへ飛行機で買い物へでかけ姑のシモーヌとの仲が悪く贅沢で張り合っていた。亡命後は、太りまくったが再婚した黒人女性のおかげでスリムな体型にもどった。
[編集] 関連作品
『独裁者たちの言い分 トーク・オブ・ザ・デビル 』 リッカルド・オリツィオ(著)、松田和也(訳)、桂書房 ISBN 4760124039