ジュリアおたあ
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ジュリア・おたあ(生没年不明)は、文禄の役(1592年 - 1593年)で、朝鮮半島は平壌近郊より日本に連れられてきた朝鮮人の娘。戦乱の中で戦死または自害した朝鮮人の娘とも、あるいは人質として連行された李氏朝鮮貴族の娘とも言われるが、生年月日や実名・家系などの詳細はいっさい不明である。「おたあ」は日本名、「ジュリア」は洗礼名を示す。
キリシタン大名の小西行長に引き取られ、小西夫妻の養女として育てられる。行長の妻の行き届いた教育のもと、とりわけ薬草に造詣を深めたと言われる。長じて絶世の美女となり、行長が関ヶ原の戦いに敗れて、石田三成とともに京六条河原で斬首された後、駿府城に迎えられ大奥で徳川家康に侍女として仕えた。昼に一日の仕事を終えてから夜に祈祷し、聖書を読み、他の侍女や家臣たちをキリスト教信仰に導いたとされる。
しかし、後に家康が側室として召し上げようとしたところを拒否したため、慶長17年(1612年)に禁教令により駿府より追放され、まず伊豆大島に、ついで八丈島もしくは新島に、それから最後に神津島に流罪となった。どの地においても熱心に信仰生活を守り、見捨てられた弱者や病人の保護や、自暴自棄になった若い流人への感化など、島民の日常生活に献身的に尽くしたとされる(ジュリアはその教化で島民からキリシタン信仰を獲得したとも言われるが、定かではない)。3度も遠島処分にされたのは、そのつど赦免と引換えに家康への恭順を求められつつも断り続けたこと、新島で駿府時代の侍女仲間のルチアとクララと再会して、一種の修道生活に入ったことなどが言及されている。
現段階の研究では、ジュリアおたあが神津島で最期を迎えたのかについても、いまだに定説を見ていないが、同島では毎年5月に、日韓のクリスチャンを中心として、ジュリアの慰霊祭が行なわれている。
駿府時代には、灯篭を作らせ瞑想していたと言い伝えられており、その「キリシタン灯篭」は、現在は宝台院に移されている。