ディーン・アチソン
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ディーン・グッダーハム・アチソン(Dean Gooderham Acheson, 1893年4月11日 - 1971年10月12日)は、ハリー・S・トルーマン大統領の下で国務長官を務めた。
しばしばアチソンはハリー・トルーマンよりトルーマンドクトリンに、ジョージ・C・マーシャルよりマーシャルプランに対して責任を負ったと言われる。アチソンはその政治経歴の初期に於いては反共主義の立場を取ったが、上院議員ジョセフ・マッカーシーによるマッカーシズムが吹き荒れたときは、名指しされた国務省職員を擁護した。アチソンはインドシナでのフランス軍に対する援助を急送するようトルーマンを説得したが、その後リンドン・B・ジョンソンに北ベトナムとの和平交渉を助言した。キューバ危機の間にジョン・F・ケネディ大統領はアチソンに助言を求め、彼をExComへ招いた。
ディーン・アチソンはコネチカット州ミドルタウンで生まれた。彼はイェール大学で学んだ(1912-15)。同大で彼は有名な秘密結社、スクロール・アンド・キーに入会した。その後ハーバード大学法学大学院(1915-18)で学んだ。そこで彼はフェリックス・フランクフルター教授に師事し、フランクフルターはアチソンにワシントンでの仕事を紹介した。アチソンは最高裁判事ルイス・ブランダイスの秘書を務める(1919-21)。
アチソンは民主党の支持者で、ワシントンD.C.の法律事務所で働いたが、フランクリン・デラノ・ルーズヴェルトが1933年に彼を財務省次官として任命した。
1945年にはハリー・S・トルーマンがアチソンを国務省次官に任命した。続く2年にわたってアチソンはトルーマンドクトリンとマーシャルプランを立案する際に重要な役割を果たした。アチソンは革命の危険にある国々での共産主義の普及を停止させる最良の方法は、それらの国々の進歩的勢力と連携することだと信じた。
1949年にアチソンは国務長官に任命された。彼は国務長官として共産主義の封じ込め政策を継続し、NATOの結成を支援する役割を果たした。しかしながら、彼は強固な反共産主義者としての役割を維持したが、単なる封じ込めではなく海外で共産主義を積極的に攻撃する役割をとらなかったために、共和党の様々な急進的メンバーによって攻撃された。彼と国防長官ジョージ・マーシャルに対し、ジョセフ・マッカーシーのような人物からの攻撃が増加した。アチソンは封じ込めと宥和を同等視するアメリカ人達から嘲笑の的となった。1950年12月15日、下院の共和党は満場一致で彼の罷免を可決した。更にアチソンは朝鮮戦争におけるダグラス・マッカーサー将軍とハリー・S・トルーマン大統領の論争で大統領の側に付き、強硬派を狼狽させた。アチソンとトルーマンは戦争を朝鮮半島内に限定しようとしたが、マッカーサーは中国への戦線拡大を要求した。
アチソンは1952年の大統領選に幻滅し、弁護士業に戻った。彼の公的経歴は終了したが、その影響力は引き続いて保持された。アチソンの法律事務所はラファイエット公園を横切って、ホワイトハウスから戦略的に位置した。そして彼は事務所から多くを達成した。彼はケネディ、ジョンソンおよびニクソン政権への非公式アドバイザーに就任した。1964年に彼は自由勲章を受章した。1970年に彼は国務省での回想録『Present at the Creation: My Years in the State Department』でピューリツァー賞を受賞した。
ディーン・アチソンは1971年、78歳のときにメリーランド州サンディ・スプリングで死去した。
[編集] 著書
- Power and Diplomacy (1958)
- Morning and Noon (1965),
- Present at the Creation: My Years in the State Department (1970)
- The Korean War (1971).
[編集] 外部リンク
- アメリカ合衆国国務長官
- 1949 - 1953
-
- 先代:
- ジョージ・C・マーシャル
- 次代:
- ジョン・フォスター・ダレス
カテゴリ: 1893年生 | 1971年没 | アメリカ合衆国の国務長官