ナイマン
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ナイマン(NaimanあるいはNayman)は、モンゴル帝国以前にモンゴル高原に割拠した遊牧民の部族集団。漢字表記は「乃蛮」である。
その起源については不明であるが、ウイグルとよく似た始祖説話をもっていたことが知られることから、遊牧ウイグルと同祖を持つ鉄勒の一派の後裔であったと考える説がある。言語的にはテュルク諸語に属する言葉を話していたようである。
11世紀から12世紀頃にはケレイトの西、すなわちハンガイ山脈とアルタイ山脈に挟まれた現在のモンゴル国西部の草原地帯に遊牧しており、アルタイ山脈方面においていくつかの分族がわかれていた。1100年頃、ネストリウス派のキリスト教が布教され、多くの者がキリスト教を受容した。ナイマンの居住地は天山ウイグル王国に近かったためその影響を強く受け、12世紀のモンゴル高原において最も文化的に発展した部族であったことが知られ、早い時期にウイグル文字を利用して自らの言語を記す方法を身に付けていた。
12世紀末から13世紀末の支配者はタヤン・ハン(タイ・ブカ)といい、モンゴル高原の中央部でケレイト部族のオン・ハンがモンゴル部族のテムジン(チンギス・ハーン)と同盟し勢力を拡大すると、1202年に高原北方のメルキト部族などと同盟してケレイト・モンゴルに対して遠征したが敗れた。続いてテムジンがオン・ハンを殺してケレイトを併合し、モンゴル高原の東部から中部にかけてを広く制覇して強大化したのに対し、1204年にタヤン・ハンは大軍を率いてテムジンとの決戦に向かったが、高原中央部のオルホン川で大敗を喫した。ナイマンの滅亡により、テムジンはモンゴル高原を統一を達成し、1206年にチンギス・ハーンとして即位する。
一方、タヤン・ハンの子息クチュルクはモンゴルの攻撃を避けてアルタイ山脈西麓のイルティシュ川流域に逃れたが、1208年にモンゴルの追討軍に敗れた。この戦いでナイマン遊牧民のほぼ全てはモンゴル帝国の支配下に入る。一方、クチュルクは単身アルタイ山脈の西方の大国カラ・キタイ(西遼)に逃れると、1211年に西遼の王位を乗っ取ってナイマン王国を再興した。彼はタリム盆地のカシュガル、ホータンを滅ぼして勢力を広げたが、1218年にモンゴル帝国のジェベ率いる追討軍に敗れ、滅亡した。
その後、ナイマンの遺民はモンゴル化し、モンゴルの中の部族集団として名前が残った。また、オイラト部族連合に属するドルベト部族とジュンガル部族を形成したチョロス部族はナイマンとよく似た始祖説話をもっており、ナイマンの後身とする説がある。