天山ウイグル王国
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天山ウイグル王国(てんざんういぐるおうこく)は11世紀から13世紀に東トルキスタンに存在したウイグルのつくった王国。西ウイグル王国、高昌回鶻、西州回鶻とも称される。主に東西の中継交易で栄えた。都はビシュバリク。
[編集] 歴史
ウイグル帝国が崩壊した後、その内の15部は西に逃れ、一部は河西(南流する黄河中流の西。現在の甘粛省付近)に入り、甘州ウイグルと呼ばれるようになり、別の一部は西へ移動して天山山脈の北東麓に落ち着いた。これが天山ウイグル王国である。更に一部は西へ移動してベラサグンに至り、カルルクと合流して後にカラ・ハン朝を作る。
元は遊牧民であるウイグルは、この地のオアシス都市国家の影響を受けて定住化するようになり、東西交易いわゆるシルクロードの中継地点として大いに栄えた。ウイグル族は初めゾロアスター教を受容し、続いてマニ教を信仰していたが、この地に来てからは仏教・景教(ネストリウス派)なども信仰するようになり、在来の定住民(印欧語族イラン系言語の話者)と融和した。このことにより中央アジアのテュルク化が進み、後にトルキスタンという言葉が生まれることになる。
12世紀に入り、東から耶律大石がこの地へを征服して西遼を建て、ウイグル族はこれに服属するようになるが、13世紀にモンゴルでチンギス・ハーンが勃興するとこれに帰順して、以後はモンゴル帝国の元で経済を担当するようになった。
モンゴル帝国以後はイスラーム化した。
現代のウイグル・ウイグル人への民族的連続性については必ずしも一致をみないとする捉え方が存在する。
[編集] 文化
文字はソグド文字から借用したウイグル文字が使用された。これは後にも述べるように、モンゴル文字、満州文字として受け継がれることになる。宗教はマニ教、ネストリウス派キリスト教なども行われたが、仏教が最も盛んであった。19~20世紀に各国の探検隊が敦煌やトゥルファンから持ち帰った出土文書の中には、ウイグル文字ウイグル語で書かれた仏典も多数含まれている。これらの研究より、天山ウイグル王国で信仰された仏教は、マニ教の強い影響を受けつつ、トカラ仏教・敦煌仏教・ソグド仏教など東西の諸要素を混在させた独特のものであったことが分かってきている。