マグヌス・ステンボック
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マグヌス・ステンボック(Magnus Stenbock, 1665年5月12日 - 1717年2月23日)は、スウェーデンの伯爵、軍人、元帥である。大北方戦争で活躍した。彼は、スウェーデン海軍の海将グスタフ・ステンボック提督の子である。彼の母は、スウェーデンの貴族ガルディ家の出身で、一説には、前スウェーデン王朝ヴァーサ朝に連なる血族であるとも言われている。生誕地は、ストックホルム。スウェーデン王カール12世に仕えた、名戦術家である。
彼は若い頃から、オランダ軍、神聖ローマ帝国軍でキャリアを積み、さらにスウェーデン陸軍の元で、1699年までに連隊長の地位にまで上り詰めた。
大北方戦争が始まると、主君カール12世の軍事的側近となり、ナルヴァの戦い、リガの戦いなどで重要な戦功を上げ、ついに将軍にまで取り立てられた。ステンボックは、クラカウ要塞の守備隊長、そしてカール12世の信任を得て、ポーランド王国の支配を任されるのである(当時のポーランド王スタニスワフ・レシツィニスキは、傀儡である)。彼はポーランド人ゲリラに悩まされながらも、ポーランドの支配に成功し、1707年には、スウェーデン軍最大の軍人と呼ばれるカール・グスタフ・レーンスケルドの後任を受けてスコーネの総督に任命された。同時期にメルネル将軍や、同僚であったアルヴィド・ホルン将軍がスウェーデンにいた。彼らは後に、スウェーデン軍再編に力を尽くす事になる。
ステンボックの成功は、しかし、1709年のスウェーデンとロシア帝国の戦い、ポルタヴァの敗戦(6月28日)によって厳しい立場へと追い込まれる事となった。ポルタヴァの戦いで、多くのスウェーデン将官が戦死ないし捕虜になり、スウェーデン軍が壊滅し、主君カール12世の逃亡と言う事態にまで陥ったのである。この敗戦を見たデンマークが、主君不在のスウェーデンに宣戦布告するのである。彼はスコーネの責任者として、デンマーク軍を水際で防がなければならないという重責を負うのである。ステンボックは、わずかな軍を率いて戦わなければならなくなった。この戦い以降、ステンボックは、主君不在の孤独な戦争に巻き込まれていくのである。
1709年11月、デンマーク軍は、エーレスンド海峡を渡った。1676年以来の危機である。ステンボックは、スコーネのヘルシンボリで待ち受け、かくしてヘルシンボリの戦い(1710年2月)が切って落とされた。 しかしステンボックのスウェーデン軍は、防衛戦争と言う意味合いが強かったため、士気が異様に高く、激しく猛攻を加えた後、デンマーク軍は壊滅した。以後デンマークは、スコーネに侵攻する力を失ったのである。デンマークは、この後、大北方戦争で守勢に立たされる事となった。
しかしヨーロッパ大陸のスウェーデン軍は敗戦を重ねていた。ステンボックは、彼らを救うため、バルト海を渡るのである。彼はポーランドと休戦条約を結び、ドイツへと向かった。彼のポーランドとの休戦は、大北方戦争全体では、失敗であったと言われている。 ステンボックは、1712年12月9日、メクレンブルク公領内のガーデブッシュで、ザクセン軍、デンマーク軍と対峙した。ガーデブッシュの戦いである。デンマーク軍は、デンマーク王フレゼリク4世が指揮を執った。この戦いで、ステンボックは、ザクセン・デンマーク軍に大勝するのである。 この報を聞いたカール12世は歓喜し、彼に陸軍元帥の地位を与えるのである。彼は大北方戦争において、カール12世に次ぐ名将となった。
しかし彼の名声は、彼を慢心へと陥らせた。彼はデンマーク領のドイツ都市を無慈悲に焼き討ちにしたのである(1712年12月29日)。彼はこの行為によって、全ドイツを敵に回し、次第に孤立していった。元より本国からの支援もなく、補給も得られなかった。主君もオスマン帝国に亡命し、帰国の兆しもなかった。
1713年、彼の軍は水難事故により激減し、ホルシュタイン公国内で包囲された。ステンボックはついに降伏したのである。その後ステンボックは、デンマークに護送され、捕虜生活を送った。
1717年、ステンボックは、捕虜のまま52年の生涯を終えた。スウェーデンの行く末を案じながらであった。